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記憶の棘、癒いの薔薇
記憶喪失の恋人、柊蒼介(ひいらぎ そうすけ)に自分を思い出してもらうため、朝陽夕夏(あさひ ゆうか)は柊家で5年間、一番下働きの使用人として身を粉にして働いた。 地を這うように蒼介の歴代の愛人たちに仕え、彼の機嫌が悪い時は八つ当たりをされ、あろうことか彼の幼馴染に蹴られて流産した時でさえ、夕夏は無理に笑みを作って「平気だよ」と取り繕った。 ただ彼が、少しでも自分に目を向けてくれることだけを乞い願って。 蒼介がようやく記憶障害の治療を受けると承諾した矢先、夕夏は執事の元を訪れ、メイドを辞めて屋敷を去りたいと申し出た。 蒼介の妹・柊雫(ひいらぎ しずく)は血相を変えて飛んできて、夕夏の肩を掴んで揺さぶった。 「今すぐ出て行くって?夕夏、頭でもおかしくなったの? 兄さんが橘結衣(たちばな ゆい)と結婚するから?兄さんは記憶を失ってるだけじゃない!もう少し耐えれば、記憶が戻った時、あなたにあんな酷いことをしたって絶対に後悔するはずよ!」 夕夏はしばし沈黙した後、力なく笑い声を漏らした。 「もう、耐えられないの」 5年前、彼女は蒼介が結婚式へ向かう途中、交通事故で亡くなったと聞いた。 彼女は狂ったように何十回も自ら命を絶とうとした。 そんな時、雫が唐突に「実は兄さんは生きていて、記憶喪失になっただけ。そして結衣と結婚する」と告げたのだ。さらに、結衣の友人である彼女は夕夏の味方はできないとも言った。 夕夏は藁にもすがる思いでメイドとして柊家に入り込んだが、蒼介の記憶喪失が真っ赤な嘘であったことに気づいてしまう。
チャプター (1)
第1章
記憶喪失の恋人、柊蒼介(ひいらぎ そうすけ)に自分を思い出してもらうため、朝陽夕夏(あさひ ゆうか)は柊家で5年間、一番下働きの使用人として身を粉にして働いた。
地を這うように蒼介の歴代の愛人たちに仕え、彼の機嫌が悪い時は八つ当たりをされ、あろうことか彼の幼馴染に蹴られて流産した時でさえ、夕夏は無理に笑みを作って「平気だよ」と取り繕った。
ただ彼が、少しでも自分に目を向けてくれることだけを乞い願って。
蒼介がようやく記憶障害の治療を受けると承諾した矢先、夕夏は執事の元を訪れ、メイドを辞めて屋敷を去りたいと申し出た。
蒼介の妹・柊雫(ひいらぎ しずく)は血相を変えて飛んできて、夕夏の肩を掴んで揺さぶった。
「今すぐ出て行くって?夕夏、頭でもおかしくなったの?
兄さんが橘結衣(たちばな ゆい)と結婚するから?兄さんは記憶を失ってるだけじゃない!もう少し耐えれば、記憶が戻った時、あなたにあんな酷いことをしたって絶対に後悔するはずよ!」
夕夏はしばし沈黙した後、力なく笑い声を漏らした。
「もう、耐えられないの」
5年前、彼女は蒼介が結婚式へ向かう途中、交通事故で亡くなったと聞いた。
彼女は狂ったように何十回も自ら命を絶とうとした。
そんな時、雫が唐突に「実は兄さんは生きていて、記憶喪失になっただけ。そして結衣と結婚する」と告げたのだ。さらに、結衣の友人である彼女は夕夏の味方はできないとも言った。
夕夏は藁にもすがる思いでメイドとして柊家に入り込んだが、蒼介の記憶喪失が真っ赤な嘘であったことに気づいてしまう。
第1話
5年前、蒼介は強硬手段で柊家を粛清し、当主である祖父から実権を奪い取った。すべては、家柄も何もない夕夏と結婚するためだった。
しかし、結婚式場へ向かう道中、2人は交通事故に遭った。
蒼介は夕夏を必死に庇って重傷を負い、懸命な治療の甲斐もなく息を引き取った。
夕夏は正気を失い、わずか3日の間に何十回も後を追おうとした。
一番危なかった時は、ナイフで自分の手首を切り裂き、真っ赤な血が床一面に広がった。
それを見かねた雫が病室に飛び込んで来て告げた。
「実は、兄さんは死んでないの。ただ記憶を失っているだけ。
お祖父様がそれに乗じて結衣をあてがい、結衣こそが心を通わせた恋人だと兄さんに吹き込んだのよ」
絶望の底にいた夕夏の瞳に光が宿り、彼女は雫の袖を必死に掴んだ。
「じゃあ、彼に会わせて!私が本当のことを伝えるから!それか、あなたが代わりに伝えてくれてもいい!」
雫は目を逸らした。
夕夏は何かを察し、声を落とした。
「だめなの?」
雫はばつが悪そうに顔をしかめた。
「結衣は私の親友なのよ!」
「ずっと兄さんのことが好きで、やっと一緒になれるチャンスを掴んだのに、私が2人の仲を引き裂く手伝いなんてできるわけないじゃない。
それに、結衣は橘家のお嬢様だけど、あなたの父親はただの農家でしょう。どう見ても結衣の方が兄さんにふさわしいわ。
あなたのためを思って言うけど、男に頼って玉の輿に乗ろうとしたって、ろくな結末にならないわよ……」
夕夏は、「一生守る」と言ってくれたかつての親友を呆然と見つめ、しばらくしてようやく声を絞り出した。
「……彼女はあなたの友達で、私は違うの?」
「そうやって私を悪者にしないでよ!」
雫はムキになって言い返し、少し間を置いてから続けた。
「何とかしてあなたをメイドとして柊家に潜り込ませてあげる。あとは自分でどうにかして。それでいいでしょ?」
夕夏は迷うことなく答えた。
「わかった」
彼女は海外のトップクラスの病院からのオファーを蹴り、柊家で泥にまみれてあらゆる汚れ仕事や力仕事を引き受け、蒼介が次々と別の愛人たちといちゃつく姿を見つめ続けた。
最初の時、蒼介を呼び止め、すがるような思いで真実を打ち明けようとした彼女は、執事に引きずり出され、顔が元の形をとどめなくなるまで何度も平手打ちを食らった。
二度目は頭がおかしくなったと見なされ、精神病棟に放り込まれ、骨と皮だけになるまで痛めつけられた。
三度目……
そして最後、少し酒を飲んでいた蒼介に、乱暴にベッドへ引きずり込まれた。
夕夏は悲鳴を上げて抵抗したが、蒼介は冷たく鼻で笑っただけだった。
「あの手この手で俺の気を引こうとしていたのは、これが目的だったんだろ?望み通りにしてやる」
悪夢のような一夜を経て、彼女も蒼介の数多い愛人の一人となった。
蒼介は他の愛人たちには優しく気前が良かったが、夕夏のことだけはゴミのように扱い、結衣が彼女をどれほど痛めつけようと見て見ぬふりをした。
結衣に階段から蹴り落とされ、下腹部を押さえてのたうち回っていたあの日、蒼介は夕夏を一瞥すらすることなく、その場で結衣にプロポーズした。
「他の女はただの遊びだ。お前だけが柊家の奥様になる。
あいつには記憶障害の治療を受けると約束したが、たとえ記憶を取り戻したとしても、俺はあんな女とは絶対に結婚しない」
……
夕夏の話を聞き終えた雫は眉をひそめた。
「たったそれだけの理由で?どうやらあなたも兄さんのこと、そこまで好きじゃなかったみたいね!やっぱり結衣だけが兄さんにふさわしいわ」
夕夏は目を閉じ、瞳の奥に滲む虚無感を隠した。
それだけの理由ではない。
流産した後、夕夏は泣き崩れたが、それでも諦めきれなかった。
だが、蒼介の書斎の前を通りかかった時、彼と結衣の会話を聞いてしまったのだ。
「蒼介、本当は記憶なんて失ってないのに、どうして夕夏を騙してるの?そばに置いて、わざわざ痛めつけるなんて」
デスクの奥に座る男は、指で軽く机を叩いた。その整った顔立ちは氷のように冷酷だった。
「事故の日、あいつは自分だけ逃げ出して、いつ爆発するかわからない車の中に俺を置き去りにした。
爺さんの言う通り、あんな女は俺の妻にふさわしくない。だが、よそで他の男に愛想を振りまくのも胸糞が悪い。この5年は、あいつへの罰だ」
ドアの外にいた夕夏の頭は真っ白になった。
――蒼介は記憶喪失になったのではなく、ただ自分が見捨てられたと思い込んで腹を立てていただけ?
でも、そんなことはしていない!
事故が起きた後、彼女は蒼介の上に被さっていた瓦礫を素手でどかし、十本の指は血まみれになった。
彼を危険な場所から引きずり出し、泣き叫びながら周囲の人に救急車を呼んでほしいと懇願した。
雫が駆けつけたのを見て、ようやく安心して気を失ったのだ。
どうして彼は誤解しているの?!
夕夏は書斎に飛び込んで説明しようとしたその時、結衣が再び口を開いた。
「彼女があなたを置き去りにしたって、どうしてわかったの?」
「雫が教えてくれたんだ」
蒼介の瞳には様々な感情が渦巻き、痛みと復讐の悦びが交錯していた。
「雫は夕夏の親友だ。嘘をつくはずがない」
そうだったのか……
すべては雫の仕業だったのだ。
夕夏は全身が強張り、直後にぷつりとすべての糸が切れたように力が抜け落ちた。
蒼介は彼女を信じず、5年間もいたぶり、踏みにじり続けた。
親友でさえも、彼女を裏切っていたのだ。
これ以上、どうやって耐えろというのか?
……
今、目の前にいる雫に対し、夕夏は問い詰めたかった。
――結衣があなたと幼馴染であるように、私もあなたとは十年以上の付き合いだ。
結衣とあなたが深い関係であるように、私もかつてチンピラからあなたを救い、あなたのために店へ乗り込み、いじめた相手の頭にビール瓶を叩き割った。
私と蒼介の縁だって、元を辿ればあなたから始まったものだ。
どうしてこんな酷い仕打ちができるの?!
だが、唇を震わせても、夕夏はただこう言うだけだった。
「ええ、私はそこまで彼を好きじゃなかったみたい。疲れたの。ただ、ここから去りたい」
雫は呆気にとられ、何かを言おうとしたその時、背後から物音が聞こえた。
脱いだばかりのコートを腕に掛けた蒼介が部屋に入ってきて、冷たい視線を夕夏に向けた。
「出て行く気か?」
第2話
雫は慌てて口を開いた。
「兄さん、彼女はそういうつもりじゃないの。兄さんが結婚するって聞いて、結衣が自分の存在を気にするんじゃないかって心配してるだけよ!」
蒼介の瞳の冷たさは納得の色に変わり、彼はソファに腰を下ろしてタバコに火をつけた。
そして無造作に手を伸ばし、赤々と燃えるタバコの火を夕夏の腕に押し当てた。
「ああっ!!」
彼女の悲鳴を聞いても、男の眉はピクリとも動かず、その声は凍りついていた。
「夕夏、思い上がるなよ。結婚前に遊び相手の一人や2人いるのはよくあることだ。お前のような底辺の女が結衣の邪魔になることなどない。大人しくしていろ」
肉が焼け焦げる微かな匂いが鼻を突いたが、胸を抉られるような痛みに比べれば大したことはなかった。
夕夏はもともと出て行くと伝えるつもりだったが、今はもう波風を立てる気力もなかった。火傷を押さえながら震える声で言った。
「わかりました」
蒼介は彼女を一瞥した。
「本当にわかっているといいがな。結衣に疎まれるのが怖いなら、身を粉にして彼女に仕えろ」
「キッチンで粥を温めてある。結衣のところへ持っていけ」
夕夏は痛みをこらえて立ち上がり、キッチンへ向かった。
粥をよそうと、懐かしい香りが漂い、彼女の目頭はどうしようもなく熱くなった。
それが蒼介の手作りであることは一目でわかった。
昔、彼女が病気になった時も、蒼介はよく粥を作ってくれた。
柊家のトップがこれほど料理上手であることに驚くと、蒼介は彼女の鼻先を軽くつつき、「お前が好きなら、一生作ってやるよ」と笑ったものだ。
あの時の言葉は耳に残っているのに、すべてが変わってしまった。
夕夏は涙を拭い、結衣の部屋へ粥を運んだ。
結衣は彼女を見上げ、冷ややかな笑みを浮かべると、唐突に足を伸ばした。
夕夏は不意を突かれてバランスを崩し、粥の椀を取り落としてしまった。
「熱い!夕夏、私が何をしたって言うの?わざと火傷させる気?」
結衣は大声で騒ぎ立てた。
騒ぎをいち早く聞きつけた雫が、ドアを開けて飛び込んできた。
部屋の惨状を見ると表情を一変させ、夕夏を激しく突き飛ばした。
「何やってるのよ!あなたが本当に兄さんのために死んじゃうかと思って、必死に兄さんのそばに置いてあげたんだから、義理は果たしたわよね?
それなのに、どうして結衣を傷つけるのよ?」
その力は思いのほか強く、夕夏は机の角にぶつかり、後頭部からたちまち血が流れ出した。
彼女は痛みに息を呑み、しばらくしてようやく壁を支えにして立ち上がった。
「雫、よく見てよ。怪我をしてるのが誰なのか」
雫はハッとして、結衣が無傷であることに気づいた。
逆に夕夏は、飛び散った熱い粥をまともに浴び、手の甲が赤く腫れ上がっていた。
騒ぎに気づいた蒼介も部屋に入ってきた。
「どうした?」
「蒼介、この人わざと私に火傷させようとしたの!」
結衣は蒼介の袖を掴み、弱々しく泣きじゃくった。
雫の顔には一瞬ためらいが走ったが、それでも口を開いた。
「そうよ……」
夕夏は思わず失笑しそうになった。
――私はいったい何を期待していたのだろう?
彼女はもう雫の方を見ず、静かな声で言った。
「柊家の至る所に防犯カメラがあります。映像を確認すればわかります」
結衣と雫は明らかにそれを想定しておらず、顔を見合わせて狼狽した。
「防犯カメラだと?」
蒼介はその言葉を鼻で笑った。
「お前ごときのために、そんな手間をかける価値があると思うか?」
「わざとじゃなかったとしても、粗相をしたお前の責任だ。執事、決まり通りに処理しろ」
夕夏は愕然として彼を見つめ、しばらくして力なく笑い出した。
そうだ、どうして忘れていたのだろう。
蒼介は誰かを愛する時、とことんその相手を贔屓し、庇い立てするのだ。
かつての自分に対してもそうだったし、今は結衣に対してそうなだけだ。
執事はすぐにうやうやしく頷き、熱湯の入ったポットを持ってくると、数人のメイドに夕夏の手のひらを無理やり広げさせた。
夕夏は一歩遅れて恐怖に駆られた。
「何をするの?やめて、だめ、私の手が――」
煮えたぎる熱湯がかけられ、色白の手は瞬く間に赤く腫れあがった。
痛い!痛い!
夕夏の顔色は一瞬で青ざめ、全身がガタガタと震え上がった!
「兄さん!」
雫は少し焦った。
「夕夏は昔、腕のいい外科医だったのよ……手を潰す必要はないでしょ!」
蒼介の目は一瞬揺らいだが、口から出たのはやはり氷のように冷たい言葉だった。
「潰れたほうが好都合だ。これで柊家から出て働こうなどという気も起きなくなるだろう。続けろ。結衣が満足するまでな」
拷問がどれほど続いたか、夕夏にはわからなかった。
意識が戻った時、他の人々はすでに立ち去っており、彼女だけがボロ雑巾のように床に転がっていた。
彼女は視線を落とした。
その手には酷い水ぶくれができ、黄色い膿が滲み出ていた。
これが、彼女の手なのだ。
40時間以上も一睡もせずに手術を続け、流れ弾に当たった雫と蒼介の命を救い、彼らから「奇跡」と称えられた手なのだ。
それが、こんな風に無惨に潰されてしまった!
よろめきながら立ち上がろうとした時、階下から物音が聞こえた。
シワだらけの服を着た初老の男性が、片手でズタ袋を引きずり、もう片方の手で額の汗を拭いながら、おどおどとメイドたちに愛想笑いを浮かべていた。
「娘を探しに来たんだ。蒼介くんの恋人のね」
「自分で育てた野菜も持ってきたよ。夕夏も蒼介くんもこれが大好物でね……」
第3話
――お父さんだ!
夕夏はキーと耳鳴りがした。
蒼介とのことはずっと父親に隠しており、彼は今でも自分が蒼介と昔のように愛し合っていると信じ切っているのだ!
「蒼介に、私以外の彼女がいるなんて知らなかったわ。どこから湧いて出たホームレス?頭がおかしいんじゃないの?蒼介、見てよあの人……」
ちょうど大広間を通りかかった結衣が、大げさに被害者ぶって泣きついた。
朝陽豊(あさひ ゆたか)は呆然とし、戸惑いながら結衣の後ろにいる蒼介を見た。
蒼介は彼など見ず知らずの他人のように、冷たい声で言い放った。
「じじい、俺の婚約者を不快にさせたな。彼女に謝れ」
「蒼介くん?どうして……」
言い終わるか終わらないかのうちに、執事が彼の膝裏を蹴り飛ばし、無理やり跪かせた。
執事は彼の頭を掴み、床に額を擦りつけさせた。
「謝れという言葉が聞こえなかったのか?橘様をどなただと思っている?ご機嫌を損ねたら、お前も娘も命はないと思え!」
「お父さん――」
夕夏はこれ以上見ていられず、よろけながら階段を駆け降り、執事を強く突き飛ばした。
執事がさらに手を出そうとするのを制し、彼女は顔を上げて蒼介を鋭く睨みつけた。その目には涙が光っていた。
「あなたが追手にやられて重傷を負った時、命懸けで匿ったのは私の父よ。
自分はボロボロの服を着て切り詰め、なけなしのお金を全部あなたと雫へのプレゼントに使ったわ。
何十時間も鈍行列車に揺られて、手作りの野菜を届けるためだけにわざわざ来てくれたのに!
父があなたに何をしたって言うの?どうしてこんな目に遭わなきゃならないの?!」
蒼介の動きが止まり、目を伏せて低く自嘲するように呟いた。
「こいつは俺に何もしていない。俺を裏切ったのはお前だ」
「え?」
夕夏は聞き取れなかった。
「……父親を連れてさっさと失せろ。二度と俺の前に顔を出すな」
夕夏は問い詰める余裕もなく、豊を支えて自分の狭苦しい使用人部屋に戻った。
豊は呆然と周囲を見回した。
部屋は狭くて蒸し暑く、壁の塗装は剥がれ落ちており、豪華絢爛な柊家とはまるで釣り合わなかった。
彼の唇はしばらく震え、ようやく絞り出すように言葉をこぼした。
「お前と蒼介くんは……」
ドアの外から数人のメイドの嘲笑いが会話を遮った。
「夕夏!またサボって!トイレ掃除して、ついでに旦那様と橘様のところにコンドームを持っていきなさいよ!」
「どうして返事しないの?手が潰れたら口まで利けなくなったわけ?」
「まさか旦那様と寝て、子供でも身ごもれば玉の輿に乗れるとでも思ってたのかしら?」
「私、あの日聞いたのよ。旦那様と雫様、それに橘様は、あの子が妊娠してることにずっと前から気づいてて、どうやって流産させるか遊び半分で投票して決めたらしいわよ……愛人でここまで惨めなのも笑えるわよね」
夕夏は呆然とした。
階段から突き落とされ、身を切られるような思いで子供を失ったのは、彼ら3人のただの暇つぶしのゲームだったというのか?!
はっとして、彼女は慌てて父親の方を見た。
豊の目にはすでに涙が溢れていた。
彼は何も聞かず、ただ涙を浮かべながら彼女の無惨な手を見つめた。
「夕夏、大丈夫だ……父さんと家に帰ろう……」
胸を締め付けるような悲しみが広がり、全身の隅々にまで駆け巡った。
夕夏は必死に嗚咽を堪えた。
「柊家との契約はあと数日で終わるの。契約が切れたら、ここを出るから」
彼女は必死に言葉を尽くして豊をなだめ、屋敷の外まで送り出した。
疲れ切った体を引きずって部屋に戻ると、彼女はその場に立ち尽くした。
部屋の電気は消えていた。
雫がケーキを手に持ち、蒼介がキャンドルに火をつけていた。
「驚いた?夕夏、今日はあなたの誕生日でしょ」
雫は少し申し訳なさそうに言った。
「手のこと……とにかくごめんなさい。私が頼み込んで、ようやく兄さんも誕生日を祝ってくれる気になったのよ」
蒼介も淡々と言った。
「こっちに来てケーキを食え」
夕夏は鼻の奥がツンとした。
かつて柊家の兄妹は彼女にケーキを作るのが好きで、酔っ払っては彼女の耳元でバースデーソングを歌ってくれたものだ。
決まって彼らは「これが柊家の伝統だから、どんなにまずくても食べなきゃだめだよ」と笑っていた。
まずいわけがない。
あんなにも美味しいケーキ、あんなにも幸せな時間は、この5年間一度としてなかった。
夕夏は込み上げる感情を必死に抑えながら、ケーキを受け取り一口食べた。
次の瞬間、強烈な痒みと息苦しさが押し寄せてきた!
彼女の目は充血し、糸が切れたように床に倒れ込み、のたうち回りながら皮膚を血が滲むまで掻きむしった。
喉の奥からヒューヒューと空気が漏れるような音が鳴った。
「た……すけ……」
――助けて!
蒼介は眉一つ動かさず、雫はお腹を抱えて大爆笑していた。
「やっぱり食べるって言ったでしょ!結衣、負けは負けよ!」
第4話
「わかったわよ、今回は私の負け」
結衣が近づいてきて、夕夏を軽く蹴った。
「何その顔?ケーキにピーナッツを少し混ぜて、あなたが食べるかどうか賭けてただけよ。まさかこんなに馬鹿だとは思わなかった!本当に食べるなんて!」
――賭け?
息が止まるほど苦しいのに、彼らにとってはただの遊びだったというの?!
夕夏は両手で自分の首を掻きむしり、呼吸ができず、胸が張り裂けそうだった!
蒼介が異変に気づき、顔色をサッと変えた。
「一口食っただけなのに、どうしてこんなにひどいんだ?結衣、アレルギーの薬を飲ませろ!」
結衣は不満げに口を尖らせ、しぶしぶ薬を取り出すと、夕夏の口に無理やりねじ込んだ。
しかし夕夏は、さらに息苦しさが増し、骨の髄まで焼かれるような激痛に襲われた!
彼女は限界を迎え、顔を横に向けると赤黒い血を吐き出した。
意識を失う直前、蒼介の顔に張り付いていた冷たさが粉々に砕け散り、血相を変えて駆け寄って彼女を抱きしめるのが見えた。
再び目を覚ますと、そこは病室だった。
夕夏が腕を動かすと、ベッドの傍らで突っ伏していた男が目を覚ました。
「気がついたか?」
蒼介の目に安堵の色がよぎり、彼女の頬に触れようと手を伸ばしたが、空中でピタリと止めた。
「結衣が薬を間違えて、お前のアレルギーを悪化させてしまったんだ。埋め合わせはする。何が欲しい?」
5年間で初めて、夕夏は彼の瞳にわずかな情けと罪悪感を見た。
「早く記憶障害の治療をしてほしいのか?安心しろ、俺は……」
夕夏は彼の言葉を遮った。
「お金が欲しい」
蒼介は動きを止めた。
「何だと?」
夕夏は繰り返した。
「埋め合わせをしたいなら、お金をちょうだいって言ったの」
蒼介は彼女をじっと見つめ、それが本気だと気づくと怒りを通り越して呆れ笑いし、無造作にカードを一枚取り出して彼女の顔に投げつけた。
「お前がどういう底の浅い人間か、もっと早く気づくべきだった!金が欲しいならくれてやる。今後は大人しく俺のそばにいて、結衣にはもっと敬意を払え」
その言葉を吐き捨てるように言うと、彼は大股で病室を出て行った。
その後10日以上、彼が顔を見せることは一度もなかった。
逆に結衣からは執拗にメッセージが送られてきた。
【蒼介が今何してるか知ってる?】
【私と一緒にいるの】
彼女は立て続けに何枚も写真を送りつけてきた。
写真の中の蒼介は、ひどく穏やかな顔をしていた。
彼女と一緒に山頂で日の出を待ち、神社の前で並んで願い事をし、さらには景勝地をドライブ旅行までしている……
夕夏は一枚一枚スワイプしながら、目の奥が焼け付くように痛んだ。
彼女は旅行が好きで、昔はよく蒼介と出かける計画を立てていた。
あの頃、蒼介は目が回るほど忙しかった。
柊家の立て直しに追われ、各方面からの圧力と戦い、忙しすぎて彼女を抱きしめながらこう約束することしかできなかった。
「結婚式が終わったら、お前の行きたいところはどこへでも連れて行くよ」
今、彼はようやく忙しさから解放されたが、隣にいるのは結衣に変わっていた。
夕夏は独り言を呟いた。
「私への当てつけなの?それとも本当に結衣を愛してしまったの?蒼介、自分でもわかってる?」
彼女は自嘲気味に笑い、結衣とのトーク画面を閉じた。
蒼介からもらった金を執事に送金して契約解除の違約金に充て、自分と父親のための航空券を予約した。
――もういい。
深く考える気力も残っていない。蒼介との腐れ縁は、これでおしまいにしよう。
だが、夕夏は思いもしなかった。その日の夜、雫が血相を変えて病室に飛び込んでくるなんて。
「夕夏、兄さんが襲撃されて怪我をしたの!」
彼女は半狂乱だった。
「輸血用の血液が足りないの。あなたと兄さんは同じ珍しい血液型だから、彼を助けてくれない?」
夕夏は彼女を冷めた目で見つめた。
「嫌だと言って、聞き入れてもらえるの?」
雫は一瞬沈黙し、「ごめん」と短く口にすると、黒服の男たちに彼女を押さえつけさせた。
太い針が血管に突き刺さり、血が容赦なく吸い出されていく。
夕夏の額からは脂汗が絶えず滲み出し、顔色はどんどん土気色になり、ついには意識が遠のいて、無意識に呟いた。
「寒い……」
「蒼介……雫……私……すごく寒い……」
雫はビクッとして、酷く狼狽したように目を逸らした。
そばにいた医師が慌て出した。
「彼女の体は衰弱しきっています。これ以上血を抜けば命に関わります!」
「兄さんを助けるためだから、夕夏もわかってくれるはずよ」
雫は拳を強く握り締め、目に涙を浮かべて叫んだ。
「続けて!」
十分な血を抜き取ると、雫は逃げるように去っていった。
夕夏はベッドに倒れ込み、丸一日意識を失っていた。
空が白み始めた頃、彼女の指が微かに動き、鉛のように重い瞼をどうにか開けた。
目に飛び込んできたのは、氷のように冷え切った蒼介の顔だった。
「怪我をしたんじゃ……」
蒼介は喉の奥で鼻で笑い、手を伸ばして彼女の首を絞め上げた!
「血が必要だと雫に嘘をつかせたのは、お前がもう一度俺を見殺しにするかどうか試すためだったんだ。
結果はどうだ?雫が言うには、結衣だけが躊躇いもなく血を抜いて俺を助けようとしたらしいな!
夕夏、お前は一度たりとも俺のために身を粉にすることはできないのか?たった一度でいいのに!」
夕夏の顔はうっ血して赤黒くなり、必死に彼の手を叩いた。
「ゴホッ……やめ……狂ってる!」
「狂ってる?ああそうさ、俺は狂ってるんだ!」
蒼介は手を離し、今度は乱暴に彼女の服を引き裂き始めた!
夕夏は悲憤に満ちた目で彼を睨み、ベッド脇のコップを掴むと、彼の頭に力一杯叩きつけた!
蒼介はたたらを踏んで後退し、手を伸ばして自分の額に触れた。
べっとりとした感触があった。
夕夏は激しく肩で息をし、震える手で袖を捲り上げると、注射針の跡が生々しく残る腕を男の目の前に突きつけた。
押し殺していた無念と悲痛がついに爆発し、彼女は喉が裂けんばかりに叫んだ。
「5年前、私はあなたを見捨ててなんかいない!昨日、あなたのために血を抜いたのも私よ!」
第5話
蒼介の瞳孔が急激に収縮した。
動揺が一瞬顔をよぎったが、すぐにまた冷酷で皮肉めいた仮面を被り直した。
「言ったはずだ。5年前のことは記憶にないとな」
「それに、血を抜いたのが誰かという話だが――雫が嘘をつくはずがない」
何しろ、夕夏と雫はあれほど仲の良い親友だったのだから。
かつては一つのベッドに入って夜通し語り合い、互いを庇って刃物を受けたこともあり、お互いの結婚式には絶対に出席しようと誓い合った仲だった。
蒼介でさえ、夕夏があまりにも雫を大切にするため、嫉妬を覚えたことがあったほどだ。
その雫が裏でずっと夕夏を陥れていたなどと、どうして信じられようか。
夕夏は驚く様子もなく、乱れた服を直して諦めきったように笑った。
「わかってたわ」
――あなたは私を信じない。あなたは昔から私を信じていかなった。
蒼介は彼女の目の奥にある深い傷に射すくめられたように目を逸らし、毒づいた。
「俺に触られるのが嫌なんだろ。俺だって、お前みたいな女はこっちから願い下げだ」
彼はきびすを返し、ドアを乱暴に閉めて立ち去った。
夕夏はその場に立ち尽くして荒い息を整えていたが、ふと気配を感じて顔を上げた。
ドアの外には雫が立っており、放心したような表情を浮かべていた。
「夕夏……知ってたのね?」
「何のこと?」
夕夏は彼女を見た。
雫はうつむいた。
「どうやらバレちゃったみたいね……ごめんなさい!結衣がどうしても兄さんを好きすぎて、あんな嘘をついたのよ!
結衣は花嫁気分を味わいたいだけで、式が終わったら私が全部本当のことを兄さんに話すから!だからもう少しだけ待ってて……」
夕夏は無言でドアをピシャリと閉めた。
ドアの外で雫は諦めきれず、さらに何かをくどくどと言い訳していたが、返事をする気にもなれなかった。
雫は、夕夏が一時的に腹を立てているだけだと思い込み、ため息をついた。
「とりあえず、頭を冷やしてよ」
足音が遠ざかるのを聞きながら、夕夏は顔を覆った。指の隙間から涙が止めどなくこぼれ落ちた。
彼女は心の中で何度も自分に言い聞かせた。
――だめよ、もう未練は断ち切らなきゃ。私にはまだお父さんがいる。
過去をすべて捨て去ってこそ、お父さんと穏やかな生活を送れるのだ。
荒れ狂っていた感情が、少しずつ凪いでいった。
夕夏は目尻の涙を拭い、服を着替えて病院を後にした。
歩きながら、豊にメッセージを送った。
【飛行機は午後に出発するから、向かいの通りで待ってて】
その時、一台の黒い高級車が猛スピードで突っ込んできて、彼女に激突した。
彼女は跳ね飛ばされてアスファルトに叩きつけられ、足の骨が「バキッ」という鈍い音を立てて、ありえない方向へ曲がった。
激痛のあまり目の前が真っ暗になりかけた時、蒼介の声が聞こえた。
「あいつの腹を轢いていけ」
夕夏が信じられない思いで目を向けると、見慣れた男が後部座席に座り、その瞳にはどす黒い感情が渦巻いていた。
彼の隣にいる雫が少し及び腰で言った。
「結衣は夕夏の子宮を潰してくれたら、安心して兄さんのそばにいさせてもいいって言ってたけど、さすがにやりすぎじゃない……」
「運転手には手加減させている」
蒼介は地面に倒れている夕夏を冷酷に見下ろした。その目には痛みと復讐の悦びが入り混じっていた。
「それに、あいつが俺を車の中に置き去りにした時、俺が死ぬかどうかなど考えもしなかったはずだ。
俺はただ、あいつに死の恐怖を味わわせてやるだけだ!」
その言葉が落ちるや否や、運転手は躊躇いもなくアクセルを踏み込んだ。
重いタイヤが夕夏の腹部を轢き、彼女は仰け反りながら獣のような絶叫を上げた!
しかし運転手は再びハンドルを切り、二度目の突進をしてきた――
「やめて!」
夕夏はこれまでにないほどの恐怖に駆られ、這いつくばって逃げようとした。下半身から流れる血がアスファルトを赤く染めていく。
しかし足はすでに折れており、逃げることなど到底不可能だった。
車が再び目の前に迫った時、夕夏は絶望して目を閉じた。
ドンッ。
鈍い衝突音が響いたが、予想した痛みは降ってこなかった。
夕夏は恐る恐る目を開け、呆然と前方を見た。
彼女の前に立ちはだかったのは、あの皺だらけの服を着ていた豊だった。彼は自らの身を呈して車を止め、ゆっくりと血の海に崩れ落ちていった。
彼は残されたすべての力を振り絞って顔を向け、懸命に笑みを作った。
「夕夏、もう大丈夫……」
世界がこの瞬間、音を立てて崩れ落ちた。
夕夏は身を引き裂かれるような悲鳴を上げた。
「お父さん――!」
第6話
蒼介は眉をひそめてその光景を見つめ、すぐさま救急車を呼んだ。
病院で、豊の容態を見た医師は渋い顔をした。
「手術の難易度が高すぎます。院長でなければ無理です!」
「ならば院長を呼べ」
医師が承知した直後、蒼介のスマホが鳴った。
結衣からだった。
彼女は電話の向こうで悲痛な声で泣き叫んでいた。
「蒼介、階段から落ちちゃったの!院長先生が手術してくれないと、私の足、残せないって言われて……どうしよう、怖いよ……」
蒼介はハッとした。
豊を食い入るように見つめていた夕夏が、弾かれたように顔を上げ、車椅子から転げ落ちた。
「院長先生を行かせないで、お父さんが死んじゃう!お願い、これからはあなたの言うこと何でも聞くから!お願い!」
彼女は床にゴンゴンと何度も頭を打ち付け、傍にいた看護師たちも止められなかった。
蒼介は何も言わず、その目にはこれまでに見せたことのない葛藤の色が浮かんでいた。
「兄さん!何を迷ってるの?」
雫が彼の手を掴んだ。
「結衣は足を失ったら生きていけないわ!当然、彼女の手術を優先するべきよ!彼女は自分の血を抜いてまで兄さんを助けてくれた恩人じゃない!」
その言葉に背中を押されるように、蒼介は決断を下した。
「俺は院長を連れて結衣のところへ行く」
「蒼介、お父さんを見殺しにする気?!」
夕夏は彼のズボンの裾を死に物狂いで掴んだ。
その言葉を聞き、男は完全に表情を凍らせた。
「そんなわけないだろう!ただ……」
彼は夕夏の指を一本ずつ剥がし、数歩歩き出したところで、さすがに少し情が湧いたのか、振り返って指示を出した。
「手術室を開けろ。
夕夏、お前は腕のいい外科医だったはずだ。父親くらい自分で救えるだろう」
「私の手はあなたに潰されたのよ、手術なんてできるわけないじゃない――」
夕夏は悲鳴のような声を上げたが、すでに歩き去った蒼介の耳には届かなかった。
彼女はその場にへたり込み、傷口から血が絶え間なく滲み出ていた。
数秒後、ハッと我に返ったように看護師の手を掴み、自分を手術室へ連れて行くよう頼み込んだ。
夕夏はメスを握ったが、手はひどく震え、正確に皮膚を切り裂くことすらできなかった!
「夕夏、無理をするな……」
豊の唇が微かに動いた。
「父さんは……お前を守って死ねるなら……本望だ……」
声は次第に小さくなっていった。
――だめ、だめ!だめ!!
彼はついに目を閉じ、息を引き取った。
「嫌ぁぁ!」
せき止められていた涙が溢れ出し、夕夏は狂ったように豊にすがりつき、冷たくなっていく体を抱きしめた。
「私のせいだ、全部私が悪いの!お父さん、目を開けて、私を叱ってよ……」
――どうして?!
今日の飛行機のチケットも取っていたのに。
あと少しだったのに、あと少しだったのに!
彼女は声が枯れるまで泣き叫んだ。
あんなにも優しかった父は、もう二度と自分を腕に抱き、不器用な言葉で慰めてはくれないのだ。
……
数日後、夕夏は街角の群衆の中に立ち、結衣がウェディングカーに乗り込むのを見つめていた。
傍らの通行人たちが噂話をしていた。
「すごい豪華な結婚式だね。橘さん、相当愛されてるみたい」
「なんでも、柊社長がプロポーズの時に『生きては偕老の契り深く、また死しては同じ苔の下にも。これからは命に代えても妻を守る』って言ったらしいよ……」
夕夏は乾いた声で呟いた。
「そう?」
噂話をしていた数人は驚いて振り返り、足を引きずり、骨と皮だけになり、どこか幽鬼のような雰囲気の女を見て、少し怯えながら答えた。
「あ、ああ、そうみたいだよ……」
夕夏はふっと笑い、群衆から抜け出して一台のバンに乗り込み、そのまま結衣のウェディングカーに向かってアクセルを踏み込んだ!
「誰だ?!」
別の車に乗っていた蒼介が振り返ったが、バンの運転席の顔はよく見えなかった。
助手席の雫が顔をしかめて不満を漏らした。
「結衣の夢を叶えるために結婚式を挙げてあげるって言ってたじゃない。結婚式が終わったら夕夏を許して、夕夏と結婚するって。
2人が籍を入れるのを楽しみにしてたのに、こんな時に邪魔するなんて!早くあの邪魔者を排除して!」
蒼介はためらうことなく部下たちに命令を下した。
男たち車を運転して夕夏のバンをぶつけ、無理やり止まらせた。そして夕夏を車から引き落とし、殴りつけた。
激痛が走り、彼女は意識を手放した。
目の前に、父の姿が浮かんだような気がした。
父は悲しげな顔で言った。
「あいつらはお前に優しくないな、いつも泣かせてばかりだ。父さんと一緒に家に帰ろう」
「うん」
夕夏は答えた。
そして残された最後の力を振り絞って顔を向け、驚愕に目を見開く蒼介に向かって、ふっと笑みを浮かべた。
――ああ、よかった。
これからは、あなたであっても、私を泣かせることはできないわ。