身代わりの妻が消えてから、夫は狂った

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身代わりの妻が消えてから、夫は狂った

GoodNovel 完結

20歳のとき、水瀬朱莉(みなせ あかり)は父の年の離れた友人、久我佐久都(くが さくと)と結婚した。 8歳年上の佐久都は、仕事では冷酷な手腕で知られ、女にも一切興味を示さない男だった。ところが朱莉にだけは、別人のように優しかった。 朱莉が何気なく「あのネックレス、きれい」と言えば、翌日には数億円もの宝飾品を届けさせた。 生理痛で寝込んだときは、20億円を超える案件まで後回しにして駆けつけ、温かい飲み物やカイロを用意して、ずっとそばについていてくれた。 情が高まると腰を強くつかみ、掠れた声で「朱莉ちゃん」と呼んだ。「いい子だ」「離れなくなる」と言うこともあった。 彼が使うSNSアカウントの名前は、どれも「elise_note」だった。 朱莉はずっと、二人が初めて会った日に、自分がピアノで弾いていた曲にちなんだものだと思っていた。 あの日、佐久都の書斎で古いアルバムを見つけるまでは。 収められていたのは、朱莉によく似た一人の少女が、ピアノの前で微笑む写真ばかりだった。 写真の裏には、こう記されていた。 【『エリーゼのために』――最愛の絵里へ】

チャプター (1)

第1章

20歳のとき、水瀬朱莉(みなせ あかり)は父の年の離れた友人、久我佐久都(くが さくと)と結婚した。 8歳年上の佐久都は、仕事では冷酷な手腕で知られ、女にも一切興味を示さない男だった。ところが朱莉にだけは、別人のように優しかった。 朱莉が何気なく「あのネックレス、きれい」と言えば、翌日には数億円もの宝飾品を届けさせた。 生理痛で寝込んだときは、20億円を超える案件まで後回しにして駆けつけ、温かい飲み物やカイロを用意して、ずっとそばについていてくれた。 情が高まると腰を強くつかみ、掠れた声で「朱莉ちゃん」と呼んだ。「いい子だ」「離れなくなる」と言うこともあった。 彼が使うSNSアカウントの名前は、どれも「elise_note」だった。 朱莉はずっと、二人が初めて会った日に、自分がピアノで弾いていた曲にちなんだものだと思っていた。 あの日、佐久都の書斎で古いアルバムを見つけるまでは。 収められていたのは、朱莉によく似た一人の少女が、ピアノの前で微笑む写真ばかりだった。 写真の裏には、こう記されていた。 【『エリーゼのために』――最愛の絵里へ】 第1話 真実を知った朱莉は、二つのことをした。 一つ目は、妊娠5か月で中期中絶を受けることだった。 お腹の子は、もう胎動を感じるほどに育っていた。処置の最中も歯を食いしばって泣かなかったが、看護師から「お子さんと面会されますか」と尋ねられた途端、泣き崩れながら首を横に振った。 二つ目は、離婚届と財産分与に関する合意書を用意することだった。 それから、佐久都に電話をかけた。 以前なら、佐久都はすぐに電話に出て、優しい声で「朱莉、どうした?」と聞いてくれた。 だがこの日は、何度かけてもつながらず、ようやく応答があったのは23回目だった。 電話の向こうは騒がしく、続いて友人たちのからかう声が聞こえてきた。 「初恋ってのは恐ろしいよな。絵里が帰ってきた途端、佐久都は妊娠5か月の奥さんを家に置き去りだ」 「仕方ないだろ。あの子は絵里の身代わりなんだから。佐久都が昔どれだけ絵里を愛していたか、お前も知ってるだろ。別れたときは酒で命を落としかけたし、今まで一度も忘れられなかった。それで、よく似た若い子を口説いて身代わりにしたんだ」 「奥さん本人は、まだ何も知らないんだろ。毎日、佐久都にべったりでさ。この前、二人がキスしてるところを見かけたけど、あんなふうに甘えられたら、見てるこっちまで骨抜きになりそうだった。俺なら、あんなかわいくて甘え上手な子が家にいたら、絵里のことなんてとっくに忘れてるよ」 「佐久都は冷たそうに見えて、一途だからな。一生、絵里しか愛せないんだろ。さっきも絵里がハイヒールで足が痛いとこぼしただけで、抱き上げてフラットシューズを買いに行ったぞ……」 スマホを握ったまま、朱莉は声もなく涙を流した。 そのとき、向こうが急に静かになった。 「誰だ、俺の電話に出たのは?」 佐久都の声だった。 「え?知らない。何かの拍子に触ったんじゃないか……」 足音が遠ざかり、やがて周囲の物音が消えた。 次に聞こえてきたのは、朱莉をいつも夢中にさせていた佐久都の優しい声だった。 「朱莉ちゃん、どうした?雷が怖くて眠れないのか?今夜は付き合いがあるんだ。遅くなるけど、帰ったら朱莉と赤ちゃんのそばにいるからな」 朱莉は深く息を吸った。 「離婚の書類にサインしてほしくて――」 言い終える前に、女の声が割り込んだ。 「佐久都、足が痛い……」 佐久都はしばらく黙ったあと、慌ただしく告げた。 「いい子だから、先に寝ていて。あとで帰るよ」 そのまま電話は切れた。 朱莉は笑い、涙をすべて拭うと、テーブルへ目を向けた。 そこには、佐久都に贈る二つの「プレゼント」があった。 一つは離婚届と合意書。もう一つは、引き取った二人の子どもを納めた、小さな白い棺だった。 人の真心を踏みにじれば、いつか必ず報いを受ける。 朱莉は確かに若かった。だからといって、これほど欺かれても耐えられるわけではない。 自分を欺く人など、もういらなかった。 あれほど愛せたのだから、きっと手放すこともできる。 どれほど座り続けていたのか。やがて立ち上がると、子どもの眠る白い棺を、葬儀社が用意した保冷用の安置ケースへそっと納めた。 そのとき、玄関から物音がした。 「朱莉ちゃん、まだ起きていたのか?」 佐久都はスーツの上着を脱ぎながら近づいてきた。ネクタイは首元で緩んでいる。 「そこで何をしてる?具合でも悪いのか?」 朱莉は答えず、ただ静かに彼を見つめた。 いつもと違う態度に戸惑いながら、佐久都は背後に隠していた上品な箱を差し出した。 「何軒も回って、やっと買えたんだ。最近、これが好きだっただろ?」 並べられた菓子はどれも、つわりの続く朱莉が好んで口にしていたものだった。 以前なら、すぐに抱きついてキスしていただろう。 今はただ、皮肉にしか思えなかった。 「どうして黙ってる?またつわりがつらいのか?」 佐久都が下腹部へ手を伸ばしたため、朱莉はそれを遮り、一枚の書類を差し出した。 「サインして」 佐久都がわずかに目を見張り、中身を確認しようとしたとき、スマホが鳴った。 画面に表示されていたのは、一条絵里(いちじょう えり)の名前だった。 電話の相手が何を言ったのか、佐久都の顔色が変わった。通話を切ると、書類には目も通さず、急いで署名した。 そして車のキーをつかみ、出ていこうとした。 「朱莉ちゃん、急用ができた。先に休んでいて」 玄関まで行ったところで、優しく付け加えた。 「これからは欲しいものがあれば自由に買えばいい。いちいち俺のサインをもらう必要はない。夫婦なんだから、俺のものは朱莉ちゃんのものだ」 朱莉は、佐久都の署名が入った離婚届と合意書を握り締め、かすかに唇を歪めた。 「佐久都。私たち、もうすぐ夫婦ではなくなるのよ」 第2話 その晩、朱莉は長い夢を見た。 佐久都と初めて出会った日の夢だった。 18歳だった朱莉は、父に連れられて久我家のパーティーを訪れた。 佐久都は仕立てのいい黒いスーツをまとい、シャンパンを手にピアノのそばに立っていた。 朱莉は一目で恋に落ちた。 やがて勇気を振り絞って彼の唇を盗むと、佐久都は驚いたあと、低く笑った。 「キスは、そんなふうにするものじゃない」 そして朱莉の後頭部に手を添え、本当のキスを教えた。 息もできなくなるほど長い口づけだった。今思い返しても、幻のように美しい夢にしか思えない。 目を覚ますと、枕は涙で濡れていた。 夜が明けてからもしばらく動けずにいた朱莉は、ようやくスマホを手に取り、父へ電話をかけた。 「お父さん、私、離婚することにしたの。手続きが全部終わったら、そっちへ行く」 声はひどくかすれていた。 「佐久都に何かされたのか?」 安孝の声がたちまち険しくなった。 「違うよ」 朱莉は、少しずつ明るくなる空を眺めた。 「もう、愛していないだけ」 本当は、佐久都が朱莉を愛していなかった。 そして朱莉も、二度と佐久都を愛さない。 その言葉は口にできなかった。砕けたガラスを飲み込み、胸の内側を切り裂かれるに任せているようだった。 電話を切ると、SNSに見知らぬアカウントからフォローリクエストが届いた。 朱莉は引き寄せられるように承認した。 すぐに動画が送られてきた。 画面の中で、佐久都はソファに浅く腰かけたまま眠っていた。眉を寄せ、ある名前をつぶやいている。 「絵里……」 続いて、長いDMが届いた。 【一条絵里よ。佐久都の初恋の相手。何年も経って、もう結婚までしているのに、まだ私を忘れていなかったなんて思わなかった。 今日帰ってきて気づいたんだけど、手首の内側には今も私の名前のタトゥーが残っているし、二人の写真も、昔の日記も全部大切に取ってあった。眠りながら私の名前を呼んでいるでしょう?きっと昔の夢を見ているのね。佐久都にとって、一生忘れられない初恋だから】 長い文章を読み終えたころには、胸の痛みさえ麻痺していた。 朱莉は一言だけ返した。 【何がしたいの?】 ずいぶん経ってから、返信が来た。 【別に。ただ、もともと私のものだった人を取り戻したいだけ。佐久都はもうすぐ起きるわ。私が悪い夢を見たと言えば、この先5日間、ずっと私のそばにいて、あなたには一度も連絡しない。信じる?】 朱莉は返事をしなかった。 10分後、佐久都からメッセージが届いた。 【朱莉ちゃん、急な仕事で5日ほど出張することになった。秘書はそちらに残しておく。何かあればいつでも連絡して。体と赤ちゃんを大切にな】 画面を見つめているうち、朱莉はふいに笑った。 笑っているのに、涙がスマホの画面へ落ちていった。 それから5日間、佐久都からは本当に何の連絡もなかった。 代わりに、絵里からは次々とDMが届いた。 海辺を歩く二人。山の上から夕日を眺める二人。郊外をドライブする二人。 【どこも、私たちが付き合っていたころによく来た場所よ】 朱莉は一つ残らず見た。 どの場所にも、佐久都はかつて朱莉を連れていってくれた。 あのころは、彼がロマンチックな人なのだと思っていた。今なら分かる。佐久都は懐かしい場所を巡りながら、朱莉の向こうに別の女を見ていただけだった。 5日目の夕方、朱莉は荷物を片づけ始めた。 佐久都にもらった宝石やバッグ、服。 彼にまつわるものはすべて段ボール箱に詰め、物置へ押し込んだ。 佐久都が慌ただしく帰宅したとき、目に入ったのは半分ほど空になったクローゼットだった。 「朱莉ちゃん、何をしてるんだ?」 朱莉は顔も上げなかった。 「役に立たないものを捨てただけ」 佐久都は深く考えず、笑って手にしていた贈り物を差し出した。限定版の絵本セットだった。 先月、集めたいと何気なく口にしたことを、覚えていたらしい。 佐久都はごく自然に朱莉を抱き寄せ、大きな手で下腹部に触れた。 「つわりはまだひどいか?明日は健診の日だろ。俺も一緒に行くよ」 「もういい」 朱莉は腕の中から抜け出した。 「これからは、ずっと必要ない」 佐久都はようやく異変に気づいた。 「どういう意味だ?どこか具合が悪いのか?」 そばにいた家政婦が口を挟んだ。 「奥様はここ数日、食欲がなく、ほとんど何も召し上がっていません」 佐久都はすぐにネクタイを緩めた。 「食材を買ってくる。好きなものを作るから、少しでも食べてくれ」 出ていく間際にも、使用人たちへ念を押した。 「朱莉から目を離さないでくれ。転んだりしないよう、気をつけていてほしい」 家政婦たちは羨ましそうに囁き合った。 「旦那様は、本当に奥様思いね」 「結婚するなら、やっぱり年上の優しい人がいいわね……」 朱莉は黙って聞きながら、自嘲するように目を伏せた。 かつては自分も、この世でいちばん幸せな恋を手に入れたと思っていた。 けれど、それは周到に仕組まれた身代わりの恋にすぎなかった。 第3話 佐久都が出ていった直後、インターホンが鳴った。 朱莉がドアを開けると、上品な菓子箱を提げた女性が立っていた。 「初めまして。一条絵里よ。あなたにDMを送ったは私」 絵里は柔らかく微笑んだ。その目には、隠しきれない挑発の色が浮かんでいた。 「このところ佐久都にいろいろ助けてもらったから、お礼にお菓子を作ってきたの。せっかく来たんだもの。まさか追い返したりしないわよね?」 朱莉が答えるより先に、絵里は勝手に中へ入り、家の中を見て回り始めた。 庭を通りかかったところで、絵里が足を止めた。 「このバラ、どれも私がいちばん好きな品種なの。佐久都、まだ育てていたのね」 朱莉の指先が震えた。佐久都は毎朝、誰にも任せず、自分の手でこの花を世話していた。 朱莉は、それが彼なりの趣味なのだと思っていた。 池のほとりでは、数匹の亀がのんびりと日向ぼっこをしていた。 「まだ生きてたんだ!」 絵里は嬉しそうに声を上げた。 「子どものころに私が飼っていたの。海外へ行ってから置いていったきりだったから、とっくに死んだと思ってた」 雨の日も欠かさず、佐久都が毎日餌をやっていた姿を思い出し、朱莉は胸が詰まった。 リビングに入ると、絵里は飾り棚の人形へ目を向けた。 「これも全部、私が好きで集めていたものよ」 室内を見回し、さらに続けた。 「家具も、私が好きな北欧のミニマルスタイルのままなのね」 絵里のあとを歩くたび、朱莉は刃の上を踏んでいるような痛みを覚えた。 2年間暮らしてきた家が、突然見知らぬ場所に変わっていく。 寝室では、絵里がクローゼットのスーツやネクタイを撫でた。 「どれも私が贈ったもの。こんなにきれいに取ってあったんだ」 佐久都は毎日、それらを丁寧にアイロンがけしていた。 彼が触れさせなかったのは潔癖だからではない。そこに絵里との思い出が残っていたからだった。 最後に、絵里は二人のウエディングフォトの前で立ち止まった。 「偶然ね」 小首をかしげて笑う。 「昔、佐久都と三つのテーマで写真を撮ろうって話していたの。砂漠と海と森。あなたたちも同じ三つを選んだのね」 朱莉の顔から血の気が引いた。 撮影のとき、この三つにすると言い張ったのは佐久都だった。自然を舞台にしたロマンチックな写真が好きなのだと信じていた。 「どうして君がここにいる?」 突然、入口から佐久都の声がした。険しい表情で、足早に入ってくる。 絵里はすぐに愛らしい笑顔を作った。 「お菓子を作ったから、佐久都にも届けようと思って。かわいい奥さんが中へ招いてくれて、食事もしていかないかって言ってくれたのよ」 佐久都の眉間から力が抜けた。朱莉に向き直る。 「一条絵里だ。近所で一緒に育って、妹のように思っている。ずっと海外にいて、最近帰ってきたばかりだから、会ったことがなかったんだ」 朱莉は無言で彼を見つめた。 近所で一緒に育って、妹のように。 二人の関係を、よくもそこまで偽れたものだ。 絵里も話を合わせた。 「そうなの。佐久都は昔から私の面倒を見てくれた。子どものころ、好き嫌いの多かった私のために料理まで覚えてくれたのよ。肉団子の甘酢あんも、白身魚のホイル蒸しも、煮込みハンバーグも、全部私の好物」 朱莉は、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り締めた。 どれも佐久都がよく作る料理だった。朱莉は、自分が好きだから作ってくれていると無邪気に信じていた。 笑顔を作ることもできず、体調が悪いと言って二階へ上がった。 しばらくすると、絵里が温かいルイボスティーの入ったカップを持ってきた。 「妊娠中でも飲めるように、佐久都が淹れたの。冷めないうちにどうぞ」 無害そうな笑みを浮かべている。朱莉がカップを受け取ると、お茶の香りが鼻を突いた。 「そうだ」 絵里がふと思い出したように尋ねた。 「赤ちゃんの名前、男の子なら悠樹、女の子なら美桜……なんて言わないわよね?昔、佐久都と二人で決めた名前なの」 朱莉の手が震え、器を落としそうになった。 どちらも妊娠が分かったばかりのころ、佐久都が考えた名前だった。 子どもの名前にまで、絵里への未練を持ち込むつもりだったのか。 胸が激しく痛んだ、そのときだった。 「あら、ごめんなさい」 絵里が「うっかり」器に手を当てた。熱いお茶が朱莉の腕へかかり、たちまち赤く腫れ、水ぶくれができた。 朱莉は痛みに息をのんだ。絵里の形ばかりの謝罪に構う余裕もなく、青ざめた顔で薬を取りに階下へ向かった。 だが階段へ差しかかった瞬間、背中を強く押された。 悲鳴を上げる間もなく、朱莉は階段を転げ落ち、一階の床へ激しく叩きつけられた。体の下から流れた血が、ベージュのカーペットを赤く染めていく。 次の瞬間、絵里まで階段を転がり落ちてきた。 キッチンで冷蔵庫を開けようとしていた佐久都が、物音を聞いて飛び出してきた。 目の前の光景に目を見開く。 「絵里!」 ふらつく絵里のもとへ駆け寄り、抱き止めると、不安げに足首を確かめた。 「大丈夫か?」 「わ、私は大丈夫……朱莉さんを見てあげて……」 佐久都はようやく、血の中に倒れている朱莉を見た。 だがその途端、絵里が腕の中で意識を失った。 「絵里!」 いつもの冷静さを失い、絵里を抱き上げ、そのまま大股で外へ向かい、朱莉を振り返ることすらなかった。 遠ざかる二人の背中を見つめながら、朱莉の意識は薄れていった。 闇に沈む直前、安置ケースの白い蓋が視界の端に映った気がした。 再び目を覚ますと、まぶしい白い光に目を細めた。 医師が朱莉を診察し、そばには険しい顔の佐久都が立っていた。 「子どもは無事ですか?」 医師は驚いて顔を上げた。 「お子さん?朱莉さんは、すでに中期中絶を受けていらっしゃいますが……」 第4話 朱莉はとっさに、ベッド脇のコップを倒した。 割れる音に佐久都が振り向いた。医師の話もそこそこに、心配そうな顔でベッドへ駆け寄った。 「朱莉ちゃん、目が覚めたのか?どこか痛む?」 朱莉は小さく首を横に振った。佐久都の肩越しに、言いよどんでいる医師が見えた。 安堵した佐久都は、改めて医師へ目を向けた。 「先生、さっき何と?よく聞こえなかったんですが」 何か大切なことを聞き逃した気がしてならない。 医師が口を開きかけると、朱莉は気づかれないほど小さく首を振った。 意図を察した医師はため息をつき、「今はゆっくり休ませてあげてください」とだけ告げて病室を出た。 特別個室には、朱莉と佐久都だけが残された。 佐久都が痛ましげに頬へ手を伸ばしたが、朱莉は顔を背けた。 何かに気づいたらしく、佐久都はすぐに謝った。 「ごめん、朱莉ちゃん。俺が悪かった。朱莉ちゃんまで階段から落ちたことに気づかなくて、俺は……でも、朱莉ちゃんも赤ちゃんも無事で本当によかった。もし何かあったら、一生自分を許せなかった。二度とこんなことは起こさない。だから、もう怒らないでくれ。な?」 その目には、心から怯え、悔やんでいるような色があった。 朱莉はたまらなく滑稽に思えた。 口にする言葉は、どれも耳に心地いい。けれど、そのうちどれが本当で、どれが嘘なのだろう。 「疲れたの」 朱莉は手を引き、目を閉じた。こんなくだらない芝居に付き合うつもりはなかった。 入院中、佐久都は片時も朱莉のそばを離れなかった。 自ら作ったスープを一口ずつ飲ませ、毎日検査に付き添い、医師の指示を一つ残らず書き留めた。夜中に朱莉が少し動くだけで目を覚まし、何か必要かと尋ねた。 看護師でさえ、これほど献身的な夫は見たことがないと言った。 それでも朱莉はほとんど口をきかず、窓の外を眺めていることが多かった。 佐久都は妊娠による気分の落ち込みだと思い、いっそう慎重に世話をした。 退院の日、佐久都は大がかりなサプライズを用意していた。 高級レストランのワンフロアを貸し切り、静かに食事ができるようにした。 食後は高級ブランド店を回り、朱莉が少しでも目を留めたものをすべて買った。 夜になると川辺の空に色鮮やかな花火が上がり、「愛してる」という文字を描いた。 「気に入った?」 佐久都は背後から朱莉を抱き、朱莉の頭の上に顎を乗せた。 「朱莉ちゃんのために用意したんだ」 空を埋める花火を眺めていると、一瞬だけ昔へ戻ったような気がした。 以前の佐久都も、こうして手を尽くして朱莉を喜ばせ、自分は世界一幸せなのだと思わせてくれた。 だが無意識に平らな下腹部へ手を当てた瞬間、幻はすべて崩れ去った。 「どうした?」 体をこわばらせた朱莉に気づき、佐久都はその肩を抱いて自分のほうへ向かせた。 「最近ずっと元気がないから、心配なんだ」 両手で朱莉の頬を包み、親指で優しく撫でた。 「カウンセラーに相談してみるか?妊娠中に気持ちが落ち込むのは珍しくない。一人で抱えなくていい。何でも俺に話してくれ」 真摯に見える目を見つめ、朱莉は突然尋ねた。 「私が全部正直に話したら、あなたも私に何一つ隠さず話してくれる?」 佐久都は一瞬驚いたあと、笑った。 「もちろんだ。夫婦なんだから、隠し事なんてしない」 朱莉は深く息を吸った。 「じゃあ聞くね。昔、どうしても忘れられないほど好きだった人がいるそうね。別れて何年も経つのに、ずっと立ち直れなかったって」 佐久都の目をまっすぐ見た。 「今はもう、その人を忘れた?」 佐久都の表情が固まった。 第5話 佐久都の指に力が入り、関節が白く浮いた。だがすぐにいつもの表情へ戻り、優しく笑った。 「とっくに吹っ切れている。別れてから連絡も取っていないし、これから会うこともない」 朱莉の口の中に苦みが広がった。 眉一つ動かさず、あまりにも自然に嘘をつく。 佐久都が頬に触れようとしたため、朱莉は反射的に顔を背けた。 佐久都はわずかに眉を寄せた。朱莉に触れることを拒まれたのは、これでもう何度目か分からない。 「誰からそんな話を聞いた?最近ずっと元気がなかったのは、そのせいか?」 声が急に厳しくなった。 朱莉が答えようとしたところで、鋭い着信音が響いた。 佐久都は画面を見つめ、しばらく黙った末に電話へ出た。 すぐに、絵里の泣き声が聞こえてきた。 「佐久都、怖い……知らない男たちがずっとついてくるの……」 佐久都の顔色が変わった。 「居場所を送れ」 上着をつかんで立ち上がり、朱莉を見ようともせず告げた。 「会社で急ぎの問題が起きた。朱莉ちゃんはタクシーで帰ってくれ」 朱莉は帰らなかった。 自分でも理由が分からないままタクシーを止め、佐久都の車を追った。 薄暗い路地で、佐久都は絵里を背後にかばい、棒を手にした数人の男と一人で向き合っていた。 普段の冷静な姿からは想像もできないほど容赦なく、相手を次々となぎ倒した。 頭から血を流した男が突然ナイフを取り出し、絵里に向かって突き出した。 「絵里!」 佐久都はためらうことなく飛び込み、自分の体で絵里をかばった。 刃が胸へ沈み、白いシャツがたちまち赤く染まった。 「佐久都!」 絵里は倒れた佐久都を抱き締め、激しく泣き叫んだ。 「怖がるな……」 絵里の腕の中で、佐久都は弱々しくも優しい声で言った。 「一生守ると約束した……俺は約束を破らない……」 路地の入口に立つ朱莉の胸に、心臓の一部をえぐり取られたような痛みが走った。 手術室の前で、絵里は涙を流しながら語り続けた。 「昔からこうだったの。私のために危険なレースに出て、死にかけたこともある。私が事故に遭ったときは、輸血をして自分まで倒れて……」 朱莉は壁にもたれ、黙って聞いていた。 落ち着いた大人の男である佐久都にも、命を顧みないほど激しく誰かを愛した時期があった。 だが、朱莉がそこまで激しく愛されたことは一度もなかった。 「あと少しずれていたら、心臓に達していました」 手術室から出てきた看護師が言った。 「一条絵里さんはいらっしゃいますか?手術の同意書に、ご家族の署名が必要です」 絵里は泣きながら首を振った。 「私は家族ではありません。奥さんなら、あちらに……」 看護師は驚いて朱莉を見た。 「ですが、患者さんはずっと『絵里』と呼んでいました。先ほど万一に備えて遺言について確認した際も、財産はすべて一条絵里さんへ残すと……」 失言に気づき、気まずそうに口をつぐんだ。 朱莉は笑った。 看護師の同情の目を浴びながら署名し、その場を立ち去った。 「待って!」 絵里が呼び止めた。 「佐久都をいちばん愛していたんでしょう?まだ危険な状態なのに、残って看病しないの?」 朱莉は足を止めたが、振り返らなかった。 「以前は、本当に愛していた。でも、もう終わったの。あなたを一度も忘れられなかったというなら、二人で好きにすればいい」 第6話 家へ戻った朱莉は、財産関係の書類を淡々と整理した。 佐久都名義の家族カード、宝石、不動産の権利証を一つずつテーブルへ並べていく。まるで、ばかげた夢の後始末をしているようだった。 3日後、佐久都は退院した。 玄関に現れた彼は、傷口を隠すように隙なくスーツを着こなし、ネクタイもきちんと締めていた。つい先日、重傷を負って生死の境をさまよった人間には見えない。 「朱莉ちゃん、最近は仕事が忙しくて、なかなか一緒にいられなかった」 けがも入院も隠したまま、抱き締めようと近づいてきた。体には、かすかに消毒液の匂いが残っていた。 怪しまれても説明できないため、無理をして退院したのだろう。 だが佐久都は知らない。朱莉がすべてを見ていたことを。 別の女を愛するために、彼がどのように命を懸けたのかも。 「赤ちゃんは元気か?」 佐久都は朱莉の下腹部へ目を向けた。 「薬はきちんと飲んでる?前よりお腹が小さくなったように見えるけど」 触れようとする手から、朱莉は反射的に一歩退いた。 「気分が悪いの。触らないで」 冷たい声だった。 佐久都は眉を寄せ、すぐに家政婦を呼んで最近の様子を尋ねた。 産婦人科から処方された薬を一度も飲んでいないと知ると顔色を変え、佐久都は薬と水を持ってきた。 「朱莉ちゃん、きちんと飲んで。体調を整えるために必要な薬だ」 朱莉が錠剤を見つめ――断る理由を探していると、インターホンが鳴った。 佐久都の友人たちが、慌てた様子で訪ねてきた。 佐久都は朱莉に休むよう言い、彼らを書斎へ連れていった。 足音が遠ざかると、朱莉はすぐに薬を流しへ捨てた。 寝室へ戻ろうとしたとき、書斎から激しい話し声が聞こえてきた。 「佐久都、絵里が家同士の決めた結婚を強要されている。拒んだら家から出られないようにされて、あさってには式を挙げさせられるそうだ」 何かが床へ落ち、割れる音がした。 しばらくして、佐久都の冷えきった声が聞こえた。 「分かった」 「分かったって、どうするつもりだ?」 「絵里を、愛してもいない男と結婚させるつもりはない」 佐久都は一語一語、噛みしめるように言った。 書斎が騒然となった。 「式へ乗り込むつもりか?」 「落ち着け、佐久都。お前には妻がいるし、数か月後には子どもも生まれるんだぞ」 「結婚式から絵里を連れ出したら、朱莉さんが世間からどう見られるか考えたのか?」 「生まれてくる子どもの立場はどうなる?」 「朱莉さんに離婚されてもいいのか?」 佐久都の声は、皆の制止を断ち切った。 「俺がきちんと処理する。朱莉ちゃんの耳には入らない」 「もし知られたら?」 しばらく沈黙したあと、平然と答えた。 「知ったところで、機嫌を取れば済む。朱莉ちゃんは俺を愛しすぎている。俺から離れられるはずがない」 扉の外で、朱莉の顔は真っ青になっていた。 無意識に胸へ手を当てる。 鈍く重い感覚は残っていたが、以前のように引き裂かれるほどは痛まなかった。 朱莉は気づいた。自分は少しずつ、この男を手放し始めている。 もう本当に、佐久都を愛していなかった。 第7話 それから数日、佐久都は異様なほど忙しくしていた。 朝早く出て夜遅く帰り、スマホを片時も手放さない。書斎の明かりは、しばしば深夜までついていた。 絵里を結婚式から連れ出すため、念入りに準備しているのだと朱莉には分かっていた。 離婚届の証人欄は弁護士が手配し、必要な署名もすべてそろっていた。届出が受理された朝、朱莉は早くに家を出て、弁護士から離婚届受理証明書を受け取った。 財産分与もすでに済ませていた。自分の私物以外は何一つ持っていかないつもりだった。 家に戻ると、佐久都が姿見の前でネクタイを締めていた。 新品らしい濃紺のスーツを着て、朝の光を受けたカフリンクスが冷たく光っていた。 見たことのない服だった。今日のために用意したに違いない。 「散歩から戻ったのか?」 鏡越しに朱莉を見つけ、優しく笑った。 「今日は出かける用事がある。家でゆっくり休んで、薬も忘れずに飲むんだぞ」 振り返ると、長い指で下腹部をそっと撫で、低い声で語りかけた。 「今日はママを困らせるなよ。ママを苦しませたら、パパが怒るからな」 目に浮かぶ優しさが、ひどく皮肉だった。 絵里のためなら命さえ投げ出せるのに、自分の子どもがすでにいないことにも気づいていない。 朱莉は離婚届受理証明書を握り締めた。 「話したいことがあるの」 佐久都は一瞬動きを止めた。 「朱莉ちゃん、もう出ないと」 「そんなに急いでるの?5分も私にくれない?」 佐久都は腕時計を見て、結局首を横に振った。 「話なら今夜、帰ってから聞く。それでいいだろ?」 「それほど大事なことなの?」 「大事だ」 ためらうことなく答えた。その目は執着と言えるほど強かった。 「俺の命よりも大事だ」 朱莉は笑った。 冬の終わりに舞う最後の雪のように、淡く、すぐに消える笑みだった。 「行って。遅れないようにね」 佐久都は何か言いたそうにしたが、最後には朱莉の額へ軽く口づけ、慌ただしく出ていった。 車の音が遠ざかるのを聞きながら、朱莉は安置ケースの前へ向かった。 冷気の中から小さな白い棺を取り出し、リビングのローテーブルへ静かに置いた。 朱莉はそっと目を閉じ、その隣へ新しい離婚届受理証明書を置いた。 スーツケースを引いて玄関を出たとき、振り返らなかった。 空港のターミナルは多くの人で行き交っていた。 離陸を前にスマホの電源を切ろうとしたところで、佐久都からメッセージが届いた。 【朱莉ちゃん、薬はキッチンに用意してある。用事が済んだらすぐに帰って、そばにいるから】 ——佐久都。これから先、私の隣にいるのは、もうあなたではない。 ——私の人生から、あなたを完全に追い出した。 朱莉は静かにメッセージを削除した。続いてアルバムに残っていた二人の写真をすべて消し、最後に佐久都の連絡先も削除した。 飛行機が離陸した瞬間、胸の奥で何かが小さな音を立て、一緒に消えた気がした。 佐久都への、残っていたすべての愛だった。

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