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離婚して一ヶ月後、元夫は後悔した
私の名前は藤森奈央(ふじもり なお)。 夫と離婚するには、数々の煩雑な手続きを踏まなければならなかった。 その手続きをようやく完了する前日、これまで一度もSNSに投稿したことのない夫・大崎秋(おおざき あき)が、突然、一枚の写真を投稿した。 その投稿に添えられた言葉はなく、ただ彼が長年想い続けてきた、彼にとって初めての片思いの相手と甘い視線を交わし合う姿だけが載っている。 コメント欄では、今度私がどうやって秋を引き止めるんだろうと、皆が推測している。 けれど私は、何もしなかった。荷物をまとめ、愛猫を抱いて、家を出た。 それからというもの、深夜になると、秋から何度も電話がかかってくるようになった。 「頼むから帰ってきてくれ」と必死に私へ縋りついてきた。 すると隣にいた幼馴染である櫻井修(さくらい おさむ)が、呆れたように笑った。 「元夫さん、ずいぶん必死じゃん。その情けない姿、なんとかならんの?」
チャプター (1)
第1章
私の名前は藤森奈央(ふじもり なお)。
夫と離婚するには、数々の煩雑な手続きを踏まなければならなかった。
その手続きをようやく完了する前日、これまで一度もSNSに投稿したことのない夫・大崎秋(おおざき あき)が、突然、一枚の写真を投稿した。
その投稿に添えられた言葉はなく、ただ彼が長年想い続けてきた、彼にとって初めての片思いの相手と甘い視線を交わし合う姿だけが載っている。
コメント欄では、今度私がどうやって秋を引き止めるんだろうと、皆が推測している。
けれど私は、何もしなかった。荷物をまとめ、愛猫を抱いて、家を出た。
それからというもの、深夜になると、秋から何度も電話がかかってくるようになった。
「頼むから帰ってきてくれ」と必死に私へ縋りついてきた。
すると隣にいた幼馴染である櫻井修(さくらい おさむ)が、呆れたように笑った。
「元夫さん、ずいぶん必死じゃん。その情けない姿、なんとかならんの?」
第1話
結婚3周年の記念日、その夜の11時。
私は何度もスマホを確認したが、秋からの返信は一つもなかった。
【秋、大丈夫?どうして電話に出ないの、すごく心配だよ】
【秋、今日そんなに忙しいの?いつ帰ってこられる?】
【秋、今日は早めに帰ってきてね】
テーブルの上に置かれた、すっかり冷めきった料理を見つめながら、私は心配とやるせなさに胸を締め付けられていた。
せめて彼の秘書の連絡先だけでも控えておけばよかったのに。
最近、会社で新しいプロジェクトが始まって多忙を極めているから、私のことにかまっている暇はない、と彼からはそう聞いていた。
私も彼を理解しているつもりだが、今日は結婚記念日だというのに……
秋のために特別に設定していた着信音が響き渡り、私は慌てて通話ボタンを押した。
聞こえてきたのは、耳に心地よい女性の声だ。
「奈央さんでしょうか?私、大崎社長の秘書です。
社長がかなり飲みすぎてしまって、私と運転手で地下駐車場までお連れしたのですが、お迎えに来ていただけないでしょうか?」
私は急いで階下に降り、運転手に手伝ってもらいながら、酒臭い秋を何とか部屋のベッドへと寝かせた。
リビングに戻ると、私たちのあとをついてきたあの若い女性が、しゃがみ込んでうちの猫・ムギと遊んでいるところだった。
でも、普段は人懐っこい猫なのに、その女にはまったく懐かず、低い唸り声を上げて威嚇している。
彼女は立ち上がると、秋のスマホを私に差し出し、ふわりと爽やかなシトラスの香りが漂わせながら薄笑いを浮かべた。
「奈央さん、今夜のことは、本当に私のせいなんです。私、お酒が弱くて……社長はずっと私の代わりに飲んでくれてたんです。それで、スマホもずっと私が預かってました。
奈央さんからのメッセージも、さっき気づいたところで……どうか社長を責めないであげてくださいね」
私の返事も待たずに彼女はさっさと踵を返して部屋を出ていき、ドアを閉める直前、私に向けていかにも挑発的な意地の悪い視線を投げてきた。
最近、秋から時折あの微かなシトラスの香りが漂っていた。そのことをふと思い出し、手元の秋のスマホ画面に視線を落とした。
ダメ元で、自分の誕生日を入力してみた。
画面のロックが解除された。
私はほっとした。秋のLINEを開いてみたが、そこに私とのトークはもうピン留めされていなかった。
トーク一覧の一番上にあったのは、原由香(はら ゆか)という名前の女の子だった。
トークの名前には、誕生日らしき数字まで記録されている。年齢からして、大学を卒業したばかりの若い娘のようだ。
トーク画面を開くと、彼が「仕事で忙しい」と言っていたまさにその日々の間でさえも、彼女からのメッセージには一言一句、すべて丁寧に返信されていた。
【秋さん、私どうしてもお酒飲めないの。大学の時、赤ワインを一口飲んだだけで、次の日一日中吐き続けちゃったんだからT_T】
【いいよ、由香のかわりに俺が飲むから。君はただ隣にいてくれるだけでいい】
【秋さん、メンチカツバーガーがすごく食べたいな。もし明日の昼にそれが食べられたら、私って世界一幸せな女の子になっちゃうな】
【ちょうど最近、新しいレストランができたんだ。今度連れていってやるよ】
【秋さん、すっごく綺麗な夕焼け!秋さんと一緒に見たいな】
【今どこにいる?すぐに行くから】
【秋さん……】
彼女が甘えれば、秋は必ず応えていた。
胸の奥から重い感情がむくむくと湧き上がり、息が詰まるような、言いようのない不快感と痛みが広がった。
その瞬間、秋と付き合い始めたばかりの頃のことを思い出した。
……
私も当時、大学を卒業したばかりだった。
デート中、隣を歩いていた女性が、恋人の腕に甘えてこうねだるのを見た。
「ダーリン、アイス食べたいな」と彼女がそう言った。
男はすぐに彼女を連れてアイスを買いに行った。
私はそのカップルを見て、そして自分より半頭分ほど背の高い秋を見比べて、同じように甘えてみたのだ。
「ダーリン、アイスが食べたいな」
すると彼は嫌そうな顔を私に向け、こう吐き捨てた。
「食べたいなら普通に言えよ。ダーリンなんて気持ち悪い呼び方するな」
私は一瞬ポカンとした。
「愛称みたいなものでしょ?ただ、もっと親しみを込めた呼び方に変えたいだけなの。どれがいいと思う?」
第2話
秋は話を聞き終えると、すぐに不機嫌そうに眉をひそめた。
「普通に名前で呼んでくれない?そういう呼び方、自分でも恥ずかしいと思わないのか?」
「でも、私たち付き合ってるんだし、周りのみんなも……」
言い終わらないうちに、秋は私の言葉を遮った。
「恋人同士だからって、そんな愛称で呼び合わなきゃいけないって言うなら、俺たちの関係を見直したほうがいいかもな」
そう捨て台詞を残すと、彼は一人で立ち去ってしまった。
その後の数日間、いくらメッセージを送っても、何度電話をかけても、彼から返信が来ることはなかった。
私は数日間すっかり落ち込んでいたけれど、どうしても諦めきれず、結局彼の家まで押しかけてしまったのだ。
「ごめんなさい。秋が嫌なら、もう二度とあんな呼び方しないから。お願い、もう一度やり直させて」
私は彼に頭を下げて謝った。
……
手にふと温かくザラついた感触が走り、ハッと我に返った。ムギが私の手を舐めてくれていたのだ。
暗転したスマホの画面を見つめながら、私は心の中で自分を嘲笑した。
なんだ、彼は甘えん坊な女の子が嫌いだったわけじゃないか。ただ、私に甘えられるのが嫌だっただけなのだ。
彼のスマホをテーブルに置いた。
いつものように、酔っ払った彼のためにしじみの味噌汁も用意せず、汚れた服を片付けることもしなかった。
私はただムギを抱きかかえて、ゲストルームへと向かった。
翌朝、目を覚ますと、秋が私の隣で横になりながらムギを撫でていた。
私が動いた気配に気づくと、彼は冷ややかな視線を向け、淡々と言った。
「昨日、俺のスマホ見たろ?」
私は黙って頷いた。
「勝手にスマホ触られるのが一番嫌いだって、前にも言ったよな?」
「じゃあ、原さんは?」
「彼女は俺の秘書だ。仕事の付き合いで飲んでたから、預かってもらってただけだろ」
「次からは見ないから」
「『次』なんてないさ。パスコードはもう変えたから」
そう言い捨てると、彼は立ち上がり、そのまま部屋を出ていった。
私の胸の奥に再び不快感がこみ上げ、言葉にできない辛みが喉の奥につかえた。
あの時、パスコードを私の誕生日に設定してくれたのも、単に彼がその時たまたま機嫌がよくて、私にちょっとサービスをしてくれただけだったのだろう。
婚姻届を出したあの日のことを覚えている。私は胸の高鳴りを必死で抑えていた、なぜなら彼が人前でベタベタするのを嫌うことは分かっていた。
家に帰り着いた瞬間、我慢できなくなって彼に飛びつき、浮かれた声で呟いたのだ。
「ついに秋を私のものにできたんだね」
私の興奮が伝わったのか、珍しく彼も冗談交じりに応じてくれた。
「そうだな。君には得しただろ」
その後、私がしつこく頼み込んでツーショット写真を撮ってもらった。機嫌がよかった彼は拒むことなく応じてくれた。
スマホを取り出し、写真を撮った後、私は待ちきれずに彼のスマホを奪い取って、嬉しそうに写真を見つめてから自分のLINEに転送した。
ふと見ると、彼が不機嫌そうに眉をひそめて私を見つめていた。
「今日は入籍した日だから口うるさく言いたくはないけどさ。
そうやって勝手に俺のスマホをいじって、アプリの中まで覗き込むような真似、正直かなり不快なんだ」
私は一瞬呆然とし、いつものように反射的に謝った。
「ごめんなさい……でも、秋のスマホ、画面ロックもかかってなかったから。誰かに見られたら危ないでしょ?」
そこで私は、どうにかして彼を説得してスマホを渡させた。そして、わざと自分の誕生日をロック画面のパスコードに設定してやった。
彼は私の企みに気づいていたけれど、止めることはしなかった。
あの時、ちょっとしたエピソードはあったものの、空気全体が甘く満たされているように感じていた。
でも今、私には絶対に許されなかったことが、由香なら許されるというのか?
特別な相手の前では、許されないことはないか。
……
結局、彼は結婚記念日のことなどさっぱり忘れていた。胸のモヤモヤが収まらない私は、気分転換に近くを散歩することにした。
家に戻ったとき、いつもなら出迎えてくれるムギの姿が玄関になかった。
名前を呼びながら部屋中を探し回ったが、家の中を何度探しても影すら見当たらない。
焦った私は、たまらず秋に電話をかけた。
つながった瞬間、電話の向こうから聞こえた秋の声は、わずかにうろたえているようだった。
「どうした?」
不吉な予感が私の胸の奥で一気に広がる。
「秋……ムギは?ムギはどこ?」
「落ち着けよ」
やっぱり彼の様子がおかしい。私の声は不安で震えていた。
「秋!ごまかさないで、ムギはどこにいるの!?」
「今、動物病院に連れてきてシャンプーしてもらってるところだ。後で連れて帰るから」
秋が自分からムギを外出させたことなんて、一度だってなかった。
不安を抑えきれず、私は詰問するように尋ねた。
「どこの動物病院!?すぐ教えて!」
第3話
聞き覚えのある、申し訳なさそうな女性の声が、電話の向こうから聞こえてきた。
「秋さん……やっぱり奈央さんには隠さないほうがいいです。
奈央さん、ごめんなさい。あの日ムギを見かけて、すごく可愛かったから……それで今日、社長にお願いして連れてきてもらったんです」
そう言ってから由香の声は詰まり、すすり泣きに変わった。
「でも、さっき車の中が少し息苦しくて、窓を開けて空気を入れようとしたら、ムギがパニックを起こしちゃったみたいで、窓から飛び出していっちゃって……
そこにちょうど車が通りかかって……
昔犬を飼っていた時は、窓を開けてもおとなしくしていたのに……そんなことになるなんて知らなくて……
全部私のせいです、ごめんなさい、うっ、ううっ……今すぐ探しに行きますから」
「由香、泣くなよ。大丈夫だから、君のせいじゃない。ムギが臆病だっただけだ」
その瞬間、私の胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。鼻をすすり、私は一言ずつ噛みしめるように言った。
「秋……お願いだから。ムギを連れて帰ってきて」
電話の向こうで秋は由香をなだめているようだった。私の声を聞くと、素っ気なく「わかった」とだけ返事をして、そそくさと電話を切った。
溢れて止まらない涙を拭いながら、私は苛立ちと不信感が募った。まさか秋は私を怒らせるために、わざと彼女とこんな茶番を演じているのだろうか?
そこまで彼女が好きなら、私だって身を引いてやる。普段から私を傷つけるのはもういい、でもどうしてムギまで巻き込むの?
ムギは、母が亡くなる前に残してくれた「家族」だった。自分の命が長くないと分かった母が、私に寄り添える心の支えとして贈ってくれた子猫だったのだ。
生後3ヶ月の時に母と一緒に引き取りに行き、「毛の色が小麦色だから」と母が「ムギ」と名付けた。
一緒に予防接種へ連れて行き、好みに合うキャットフードを選び、居心地のいいベッドを整えた。
小さい頃から私の感情を敏感に感じ取り、嬉しい時も悲しい時も、ただ静かに寄り添ってくれた。言葉を喋らないだけで、私にとっては我が子も同然の存在なのだ。
やがてムギが1歳になった頃、母はがんとの闘病の末に息を引き取った。
あれからムギは6年間も私を支え続けてくれた。秋だって、その一部始終を知っていたはずなのに。
……
秋は荒い息を吐き続けるムギを抱えて帰ってきた。ムギのその姿が、私の淡い期待を無残に打ち砕いた。
ムギは私を見つめると、瞳を大きく見開き、救いを求めるような痛々しい表情を浮かべた。開いた口からは血が滴り落ちている。
「奈央さん、本当にごめんなさい……」
脇に立つ二人など目にも留めず、私は胸を引き裂かれる思いでムギを抱き上げ、地下駐車場へ駆け下りた。ナビで一番近い動物病院を検索し、車を走らせた。
病院に駆け込むと、白衣を着た獣医が私の腕の中で血を吐くムギを見て、すぐさま抱き取った。
「落ち着いてください。まずはレントゲンを撮ってくるから、受付で問診票を書いて待っていてください」
書類を書き終えて戻ると、ムギは点滴を受けており、先ほどより明らかに呼吸が落ち着いていた。
医師が検査結果を私に手渡した。
「肺の出血がひどく、上下の顎もかなり脱臼していますね。ですが、早く連れてきてくれてよかったです。
命の保証ができるまで24時間の入院経過観察が必要ですが、とても強い子です。
だから……そんなに心配するなよ、奈央の泣き虫。俺が全力で助けてやるから」
私は驚いて彼を見上げた。彼がマスクを外すと、そこにあったのは幼い頃に同じ近所で育った櫻井修(さくらい おさむ)の顔だ。
私と彼は幼馴染と言える間柄だったが、他の仲睦まじい幼馴染とは違い、私たちは顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。
初めてうちに遊びに来た時、彼は私の人形に落書きをして顔をぐちゃぐちゃにした。怒った私は泣きじゃくりながら彼に殴りかかり、顔をすっかりパンダみたいにしてしまった。
親が見つけた時、彼は泣きじゃくりながら叫んでいた。
「この泣き虫!男は女に手を出しちゃいけないって分かってて暴力振るうなよ!」
結局、親たちになだめられながらお互い涙目でお詫びをしたものの、腹の中では密かに根に持ち合い、それ以来顔を合わせるたびにへらず口を叩き合う仲になった。
そして、高校へ進学する前の夏休み、父が交通事故で亡くなった。父の生活していた街で暮らし続けることは、私と母にとって耐え難い苦しみだった。
そのため私たちは引越しをして、ちょうど同じ時期に修も実家へ引っ越したことで、それ以来連絡が途絶えていたのだ。
修はポケットからティッシュを取り出すと、私の手に押し付けた。
「ほら、拭けよ。まったく、昔から泣き顔が不細工なのは変わらないな」
それから私の薬指に光る指輪に視線を落とし、不思議そうに尋ねた。
「結婚したのか?旦那は、なんで一緒に来なかったんだ?」
第4話
私は薬指の指輪を外し、自嘲した。
「ムギがあんな目に遭ったのは、秋のせいよ。そんな人を一緒に連れてこられないでしょう」
「昔からそうだったよな。君って、何かあるとすぐ俺まで巻き込んでたくせに。
でも今はどうした?こんなふうに、好き放題傷つけられるようになって。
困ってるなら、俺が力になってやろうか?」
私は首を振った。
「大丈夫。自分で何とかするから。ただムギのこと、よろしくね」
修はまだ納得していないような顔をしていたが、しぶしぶ頷いた。
それから私とLINEを交換した。
ムギの容体に変化があれば、すぐ連絡できるからだって。
……
家に戻ると、秋は電話の真っ最中だ。
「由香、もう泣くなって。本当に君のせいじゃないから。ちゃんと家に帰って、いい子にしてろよ?明日、何か美味しいもの買っていってやるから」
私に気づくと、秋はさらに電話の向こうへ優しく声をかけた。
「奈央が帰ってきた。俺からちゃんと説明するから。ほら、もう泣くなって。じゃあ、一旦切るぞ」
私は秋の向かいに腰を下ろした。
泣きもしないし、責めもしない。
ただ、黙って彼の顔を見つめていた。
この人は、こんなふうに誰かを慰めることもできるんだ。
4年前のことを思い出した。
私は秋が大好きなアーティストのライブチケットを必死になって、やっと手に入れた。
秋も珍しく喜んでくれて、一緒に行くと約束してくれた。
けれど当日、私は会場の前で、日が暮れてもずっと彼を待っていた。
夜になっても、ライブが終わっても秋は来なかった。
何度メッセージを送っても、返事はなかった。
私はたまらず秋の家まで押しかけた。
すると彼は、寝ぼけた顔で起きてきて、悪びれる様子もなく言った。
「寝坊したんだ。スマホも、いつも通りマナーモードだったし」
私は泣きながら、どうしてこんなことをするのかと尋ねた。
すると秋は、面倒くさそうに眉をひそめた。
「そんなことで泣くなよ。自分で勝手に期待したんだろ。人に期待しすぎるなって。
そういうの、本当に面倒なんだよ。もう帰ってくれない?せっかく気分よく過ごしてたのに、台無しだ」
それだけ言うと、秋はまた部屋へ戻っていった。
私は泣きながら家に帰った。
どうせ、もう彼のほうから連絡してくることなんてないって思っていた。
結局はその通りだった。
一週間経っても、秋からは何の連絡もなかった。
今度は私のほうが不安になって、長いメッセージを何度も送った。
それでも返事はない。
結局、私は秋のお母さんにまで連絡してしまった。どうしたら秋の機嫌を直せるのか分からなくて、お母さんに頼み込んだ。
すると秋は、母親に言われたからなのか、ようやく私に返信してきた。
【今回だけだからな】
今、目の前にいる秋の顔を見つめながら、知っているはずの顔なのに、どうしてこんなにも知らない人のように見えるんだろう。
しばらく沈黙が続いたあと、秋が口を開いた。
「ムギはどうだった?」
けれど、私が答えるより彼が先に続けた。
「由香のことも、あんまり責めるなよ。まだ若い子なんだし、わざとやったわけじゃない。
もしムギが助からなかったら、また新しい猫を選びに行けばいいだろ。奈央、前からラグドール好きだったじゃん。一緒に見に行く?」
その見下すような態度で話した言葉はまるで、私への施しみたいだ。
その瞬間、ふと秋と初めて出会った日のことを思い出した。
高校生の頃、父が亡くなってから、私は悲しみを紛らわせるように、ひたすら何かを食べていた。
気づけば少し太ってしまっていて、そんな自分が嫌になり、だんだん人と関わることも怖くなった。
学校では、そんな私を面白がる女子生徒たちに目をつけられるようになった。
あの日も、私は階段の踊り場に追い詰められてた。散々悪口を言われたあと、彼女たちはいつものように、仲間の一人を適当に選んで、私に平手打ちを食らわせるつもりだった。
もう、いつものことだった。だから私は目を閉じた。
けれどいつまで経っても、頬に痛みは走らなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前にいた女の子が振り上げた手を、一人の男子生徒が掴んでいた。
17歳の彼は、ただ制服を着ているだけなのに、なぜか、光をまとっているように見えた。
とてもあたたかかった。
彼は彼女たちと向き合い、私を自分の背中に隠した。私は、ただ呆然とその背中を見つめていた。
しばらくして、彼女たちは悔しそうに私を睨みつけると、そのまま去っていった。
私は怖くて、思わず後ずさった。
すると彼は振り返り、私の肩を軽く叩いた。
「もう大丈夫。あいつら、これから先は君に手を出さないから」
どうして助けてくれたのか。どうして、私なんかのために、とか聞きたいことはたくさんあった。
でも、人と話すことにすっかり慣れていなかった私は、言葉が出てこなかった。
彼が校舎の外まで送ってくれたあと、私はようやく、小さな声で「……ありがとう」と言った。
届いたかどうかも分からないくらい、小さな声だった。
あとになって彼の名前は大崎秋だと知った
あの頃の秋は、確かに光っていた。
でも、今は違う。彼を包んでいたあの光は完全に失われ、ただの通りすがりの誰かにしか見えなかった。
私は秋の目をまっすぐ見つめた。
そして、はっきりと言った。
「秋、離婚しよう」