第1章
部署のみんなで、親睦を兼ねたハイキングに出かけることになった。
グループ分けのとき、私――白川琴葉(しらから ことは)は2年間ひそかに付き合っている佐伯湊(さえき みなと)を見る。
当然、彼は私を選ぶと思っていた。
けれど彼が目を向けたのは、帰国したばかりの幼なじみ――前田夏海(まえだ なつみ)だった。
「体力ないだろ。俺と同じグループに入れ。俺がついてるから」
夏海はごく自然な仕草で、彼の腕に手を絡める。
それを見た同僚たちは、たちまち囃し立てる。「やっぱり幼なじみって特別ですね。社長、まだ独身ですよね?二人、けっこうお似合いじゃないですか」
湊は、夏海の腕を振りほどこうともしない。ただ、淡々と答える。「うん。俺、彼女いないけど」
その場で、私は凍りつく。
昨夜まで、彼は私を抱きしめていた。「もうすぐ、みんなにちゃんと話すから」そう言っていたのに。
なのにグループ分けが終わるまで、彼は一度も私を見ない。
私はどのグループにも入らず、自由参加の組に回された。そして山を登っている途中、半ばまで来たところで足をひねる。
私は彼にメッセージを送る。【湊、もう歩けない】
既読はつく。けれど、返事はない。
40分待って、ようやく届いたのは、グループチャットに投稿された山頂での集合写真だった。
湊は夏海の肩を抱き、満面の笑みを浮かべている。
その下には、二人を面白がって盛り上がるコメントが次々と並んでいる。
そのうちの一人が私をメンションする。
【白川さん、置いていかれた?みんなの足引っ張らないでよ】
【前田さんはもう山頂に着いてるのに、まだなの?】
【歩けないなら、最初から来なきゃよかったのに】
その日、私はひとりで山を下りた。
山の麓では、湊が夏海のためにタクシーを呼んでいる。
そのとき、私が足を引きずりながら歩いてくるのが目に入って、彼はほんの少し眉をひそめただけだった。
「俺に個別で連絡するなって言っただろ。会社の人に見られたら、変な誤解をされる」
その瞬間、私はようやく理解する。「秘密の恋」なんて、結局は彼がいつでもなかったことにできる関係だったのだ。
湊。あなたが望んだとおり、あなたにはもう彼女はいない。
第1話
山の麓の救護室で傷の手当てを終えた頃には、湊はもういなくなっていた。
今回の親睦会を担当している総務の人が、薬の入った袋を私に差し出す。
「社長から預かってます。手当てが終わったら、タクシーで一人で会社に戻るように、とのことです」
私は小さな声で尋ねる。
「社長は……?」
「前田さんが低血糖を起こしたので、社長が病院まで付き添っています」
腫れて熱を持った足首を見下ろす。胸の奥に残っていた最後の期待が、静かに消えていく。
会社に戻り、机の端に手をついてようやく腰を下ろす。その直後、夏海が社内グループにメッセージを投稿する。
【社長が検査に付き添ってくれたおかげで、もう大丈夫よ。今夜の食事会、みなさん忘れずに参加してくださいね】
すぐに同僚たちが盛り上がる。
【社長がわざわざ病院まで付き添うなんて、羨ましいな】
【山登りで置いていかれる人もいれば、具合が悪くても山頂まで頑張る人もいる。やっぱり違うよね】
私はグループチャットを閉じる。すると、今度はアシスタントが大量の書類を抱えてやってくる。
「白川さん、社長から、今夜中に青嵐(せいらん)プロジェクトの初稿を修正しておくように言われている」
「今夜って、食事会じゃないの?」
「午後、仕事を中断した分を取り戻してもらうそうです」
その言葉が終わるのとほぼ同時に、廊下の突き当たりにある役員専用エレベーターが音を立てて開く。
湊が夏海を支えながら出てくる。
夏海が羽織っているのは、湊のジャケット。そして手にしているのは、深い藍色の陶器のカップ。
それは、私たちが付き合い始めて初めてのデートで、一緒に焼いたカップだった。
カップの底には、少しいびつな葉っぱの模様が刻まれている。湊が自分の手で刻んだものだ。
昨夜、湊に家まで送ってもらったとき、私は車を降りる際に、うっかりそれを助手席のドリンクホルダーに置き忘れてしまった。
夏海が私の視線に気づく。そして、笑顔でカップを掲げた。
「湊ったら、病院から帰ったばかりで胃がつらいかもしれないからって、わざわざお湯を入れてくれたの。このカップ、けっこう可愛いね」
私は机に手をつき、立ち上がる。
「それ、私のよ」
周囲が、一瞬で静まり返る。
湊が私を見る。その目には、わずかな警告の色が浮かんでいる。
「陶芸店でもらった、ただのカップだ。大したものじゃない」
夏海は彼の言葉に合わせるように、にこりと笑う。
「なんだ、もらい物だったんだ。白川さんが気に入ってるなら、どうぞ」
そう言って、カップを私の机の上に置く。
そして、指が離れ、カップが机の角にぶつかって、乾いた音を立てる。
亀裂がカップの縁から底まで、一気に走った。
「ごめんなさい……」夏海は手を押さえ、目を潤ませる。「わざとじゃないの」
湊は真っ先に彼女の手を取って、指先を確認する。
怪我がないと分かってから、ようやく淡々と言った。
「割れたなら捨てればいい。カップ一個だろ」
清掃員がやって来て、カップを破片ごとゴミ箱へ掃き入れる。
私は、そこに残った葉の模様が刻まれた破片を見つめる。ズキン、ズキンと足首が痛む。
同僚が急かすように声をかけてくる。
「白川さん、初稿はいつ終わりそう?個人的なことでチーム全体の仕事を遅らせないでよ」
私は席に戻る。
「12時までに」
みんなに囲まれるようにして、夏海がエレベーターへ向かっていく。けれど、湊だけはその場を動かない。
私の腫れ上がった足首に一度目をやると、書類の間に一枚のカードキーを滑り込ませる。
私たちがよく利用していたホテルのカードキーだ。
湊が低い声で言う。
「終わったら、俺のところに来い。意地を張るな」
私はカードキーを彼の前へ押し返す。
「社長には彼女がいないんだよね。今夜、二人きりで会うのはおかしいと思うけど」
湊が私の手首をつかむ。
「山でのことなら説明できる。夏海は体調が悪かった。あいつを置いていくわけにはいかなかった」
「私も、歩けなかった」
「でも、お前は下りてきただろ」
あまりにも当然のように言われる。まるで私が、一人で痛みに耐えながら山を下りてきたのは、最初から彼の助けなんて必要としていなかったからだと言わんばかりに。
そのとき、出入口のほうから夏海の声が聞こえる。
「湊、みんな待ってるよ。早く食事会に行こう」
湊は私の手首から手を離す。そして私の書類を取り上げ、修正が必要なページを開いて、机の上に置く。
「まずは仕事をしろ。話は夜にしよう」
そう言って、湊は夏海のもとへ向かう。そして、エレベーター前で待っていたみんなと合流し、そのまま一緒に去っていく。
第2話
深夜12時ちょうど。私は修正を終えた初稿を、社内のグループチャットに送る。
湊からの返信はない。
けれど、その一秒後、スマホに夏海から写真が届く。
写真の中で、夏海は湊の肩に寄りかかり、今も彼のジャケットを羽織っている。
湊は少し顔を傾けて、彼女の話に耳を傾けている。その表情には、私がもう長いこと見ていなかった優しさと忍耐が滲んでいる。
続けて、夏海からメッセージが届く。
【もう待たなくていいよ。今夜、湊はあなたのところには行かないから】
その一文を見つめていると、机の上に置かれたホテルのカードキーが、急にひどく滑稽なものに思えてくる。
翌日の会議で、湊が私の初稿を大画面に映し出す。
「青嵐プロジェクトは前田が担当する。白川はサポートに回ってくれ」
私は思わず顔を上げる。
「この企画は、私が一人で作り上げたものです」
湊の右隣に座っている夏海が、申し訳なさそうに微笑む。
「私、帰国したばかりだから、まずは市場を知るためにも一つプロジェクトを任せてもらうことになったのです。安心して。実際の進行は、白川さんの意見を中心に進めますから」
私は湊を見る。
「クライアントとの打ち合わせから初稿まで、全部私が担当しています」
「だから、お前にサポートを頼んでる」湊がテーブルを指先で軽く叩く。「前田が方向性を決めて、お前が実務を担当する。それで問題ないだろ」
「じゃあ、署名は?」
会議室に、何人かの小さな笑い声が響く。
「たかが一つのプロジェクトだろ。まさか社長の前で手柄を取り合うつもり?」
湊の表情がわずかに冷える。
「白川。会社はお前が一番になるために競う場所じゃない」
2年前。初めて私にプロジェクトを任せてくれた時、彼は言っていた――「俺は、お前のその野心が一番好きだ」
今、夏海が社内で足場を築くための機会が必要になると、私の「野心」は、途端に「空気が読めない」に変わる。
私はパソコンを閉じる。
「企画を彼女に任せることには異論ありません。でも、私の名前まで消すのはやめてください」
湊が私を見る。有無を言わせない口調だった。
「もうクライアントにはそのメンバーで伝えてある。わがままを言うな」
私はパソコンを抱えて、会議室を出ようとする。
すると湊が私の手首をつかみ、強引に机のそばへ引き戻す。
足首が椅子の脚にぶつかる。激痛に、顔から血の気が引く。
湊は反射的に少し力を緩める。それでも、手を離そうとはしない。
「みんなの前でドアを叩きつけて出ていくつもりか?笑いものになりたいのか」
夏海も立ち上がり、私の腕を取ろうとする。
「白川さん、社長を責めないで。提案会では、あなたもこの企画に関わったって私からクライアントに伝えるから」
私はその手を避ける。すると夏海がよろめいて後ろへ下がり、机の角にぶつかる。その拍子に、机の上のコーヒーが倒れた。
湊がすぐに夏海の前へ立ちはだかる。
「白川」
周囲の視線が、一斉に私へ向けられる。
夏海は慌てて弁解する。
「白川さんのせいじゃありません。私がちゃんと立っていられなかっただけです」
彼女が私を庇えば庇うほど、周囲の視線は冷たくなっていく。
「前田さん、優しすぎるよ」
「プロジェクトを横取りした挙げ句、人まで突き飛ばすなんて……会社を自分の家か何かだと思ってるんじゃない?」
湊はジャケットを脱ぎ、夏海の肩に掛ける。そして冷たい声で言う。
「謝れ」
「私は突き飛ばしてなんかいません」
「帰国初日から、たった一個のカップのことで彼女に嫌な思いをさせた。そのうえ今度は、みんなの前で恥をかかせるのか。
俺がお前を甘やかしてきたからって、何をしても許されると思うな」
鼻の奥がツンと痛む。
彼が言ったのは、「甘やかしてきた」。
けれど、ここにいる誰の目にも、彼が私だけを特別扱いしたことなんて一度もない。
「社長が……いつ私を甘やかしたんですか?」
湊は黙り込む。
深夜私を家まで送ってくれたこと、誰にも知られないように交わした抱擁、ホテルや私の部屋でしか口にできなかった「好き」という言葉……そのすべてを、ここで口にすることなんてできない。
夏海が湊の袖をつまむ。
「私のために白川さんを叱らないで」
湊は彼女を自分の後ろへ庇う。
「最後だ。謝れ」
私は数秒、彼を見つめる。
「すみません」
それを聞いて、ようやく同僚たちは満足したように散っていく。
けれど、湊の表情は緩まない。
会議が終わると、湊は資料室で私を待ち伏せする。
「昨夜、どうして来なかった?」
「だって、彼女がいないんでしょう?」
「社員が大勢いる前だったから、ああ言うしかなかった」彼の指先が、私の手首の骨を押さえる。「今、会社は資金調達の最中だ。社内恋愛のことを取締役会に知られたら、俺たち二人にとって何の得にもならない」
この言葉を、私はもう2年間聞き続けている。
「資金調達が終わったら……ちゃんと公表してくれる?」
「ああ」
「いつ終わるの?」
湊は一瞬、言葉に詰まる。
「俺を追い詰めるな」
私は小さく笑う。
私が少しでも踏み込んで聞けば、彼はいつだって「俺を追い詰めるな」と言う。
湊が一本のネックレスを私の手のひらに置く。
「昨日は俺の配慮が足りなかった。これをやる。もう怒るな」
それは、半年前に私が何気なく「こういうデザイン、好き」と話したネックレスだった。
一瞬だけ、どうしようもなく心が揺れる。
けれど、次の瞬間、資料室のドアが開く。夏海が入ってくる。
彼女は私の手の中のネックレスを見るなり、驚いたように口元を押さえる。
「湊、本当に見つけてくれたの?私が海外でなくしたの、これと同じものだよ」
湊はすぐに私の掌からネックレスを取り上げた。
「もともと、お前のために探してたものだ」
そして、自分の手で夏海の首にネックレスを掛ける。
振り返った湊が、私に言う。
「さっきのは、ちょっと見せてもらっただけだ。変な誤解をするな」
私は力なく手を下ろす。
掌には、ネックレスの留め具が食い込んでいた跡だけが、赤く残っている。
第3話
午後、青嵐のクライアントから、提案会には私を出席させてほしいと名指しで依頼が入る。
夏海の笑顔が、少しだけ曇る。
「クライアントが企画の担当者に会いたいなら、当然、私が行くべきでしょう」
営業担当が困ったように口を開く。
「先方は以前、白川さんが担当した案件をご覧になっていて、白川さん本人にプレゼンしてほしいと明確に希望されています」
湊が私を見る。
「じゃあ、二人で行けばいい」
夏海は資料をめくりながら、静かな声で尋ねる。
「私がプレゼンして、白川さんには質疑応答を担当してもらう。それでいい?」
私が答えるより先に、湊が口を挟む。
「そうしよう」
提案会が始まり、夏海は私が作った資料を使って話し始める。
けれど10分もしないうちに、肝心のデータを逆に説明してしまう。
クライアントが、その場で話を遮った。
「前田さん、このユーザーモデルを作ったのはどなたですか?」
夏海の顔から血の気が引く。
私はマイクを受け取り、モデルの内容を最初から説明し直す。
クライアントの険しかった眉が、少しずつ緩んでいく。
「なるほど、そういうことですか。こちらのほうが正しいですね。今後の打ち合わせは、白川さんと直接進めさせてください」
帰りの車内、夏海はずっと黙ったままだ。
先に口を開いたのは湊だった。
「白川。さっき、あそこまで口を挟む必要はなかっただろ」
「データを逆に説明してたから」
「彼女に教えてあげればよかっただろ。みんなの前で恥をかかせる必要はない」
私はバックミラーを見る。
助手席の夏海は、絶妙なタイミングで目を赤くしている。
「じゃあ、会社がこの案件を失うのを黙って見ていればよかったの?」
「案件は失わない」湊の声が少し低くなる。「お前はただ、自分のほうが彼女より優秀だって証明したかっただけだろ」
夏海が振り返る。
「二人とも、もうやめて。全部私が悪いから。白川さん、私のことが嫌いなのは分かってる。でも、仕事は仕事でしょ。そこに私情を持ち込まなくてもいいんじゃない?」
私は、ふと可笑しくなる。
「私がどうしてあなたを嫌いだと思うの?」
「湊から……じゃない?」
何気ない口調で、夏海は言う。
湊がすぐに遮る。
「夏海」
「違うの?」夏海は小さく笑う。「親睦会のときから、ずっと湊のことを目で追ってたじゃない。それに、白川さんがよく湊の後をついて帰ってるって話も聞いたことあるよ」
背筋が凍る。
確かに、会社の人の中には、私が湊のマンションに入っていくところを見た人もいる。
付き合っていた2年間、私はときどき、あの部屋に泊まっていた。
湊はハンドルを握ったまま、淡々と言う。
「たまに資料を届けに行ってただけだ。変な想像するな」
夏海は意味ありげに「ふーん」と声を漏らす。
車内が静まり返る。私はもう、何も説明しない。
会社に戻ってから、青嵐プロジェクトの原資料がまだ湊のマンションに置いたままだったことを思い出す。
夜、私は資料を取りに向かう。けれど、玄関の指紋認証はエラーになった。
湊が帰ってきたのは、それから30分後だった。
彼は玄関を開ける。けれど、私を中へ入れようとはしない。
しばらくして、部屋の中から段ボール箱を一つ運び出し、私の前に置く。
「お前の荷物、全部ここに入ってる」
「どうして私の指紋を削除したの?」
「夏海がホテル暮らしに慣れないから、しばらくここに泊まることになった」
湊は低い声で説明する。「お前が暗証番号を知ってるって聞いたら、余計なことを考えるだろ」
その言葉が終わった直後、主寝室から夏海が出てくる。身につけているのは、湊のシャツだ。
夏海はわざとらしく驚いた顔をする。
「白川さん、どうしてここに?」
私は湊を見つめる。
「どうして彼女が主寝室にいるの?」
湊が私の視線を遮るように立つ。
「客室のエアコンが壊れてる。ここで騒ぐな」
夏海はドア枠にもたれながら、意味ありげに言う。
「ねえ、湊。白川さんって、本当に資料を届けに来てただけなの?」
私は湊の答えを待つ。
数秒の沈黙後、湊は段ボール箱を玄関の外へ押し出す。
「そうだ」
ドアが、私の目の前で閉まる。
その向こうから、夏海の声が聞こえてくる。
「ねえ、白川さんは、もしかして湊のこと好きなの?」
湊の低い声が返ってくる。
「放っておけ」
次の瞬間、「ピッ」と電子ロックの音が鳴る。完全に、私はドアの外へ閉め出された。
翌日。夏海が会社で、青嵐プロジェクトの最終案を発表する。
そこから、私の名前は完全に消えている。
着替え室で、夏海が私の前に立ちはだかる。
「昨日、私が湊のシャツを着てるのを見て……つらかった?」
私は彼女を避けて通ろうとする。
「どいて」
夏海が私の腕をつかむ。
「湊は言ってたよ。あなたは何度か資料を届けに来ただけだって。でも、自分を好きでもない男にいつまでも付きまとってるなんて……恥ずかしくないの?」
第4話
私は彼女の手を振り払う。
夏海は二、三歩よろめき、手を上げると、私の頬を思いきり平手打ちした。
耳元で、キーンと音がする。
彼女は声を落とす。
「この一発は、忠告よ。自分のものじゃないものに執着しないで」
私は反射的に、彼女の頬を叩き返す。
そのとき、湊がドアを開けて入ってくる。ちょうど、夏海がロッカーの脇に倒れ込むところを目にする。
湊は大股で歩み寄り、私の手首を強くつかむ。
「お前、何やってる?」
夏海は頬を押さえ、泣き出す。
「白川さんを責めないで。湊が彼女のことを好きじゃないって言ったから……きっと、ショックだったのよ」
湊の手に、さらに力がこもる。
「謝れ」
「先に手を出したのは彼女」
「もういい」
湊は私を突き放す。
私は背中をロッカーの角に強くぶつけ、その場で痛みに耐えきれず体を折る。
湊が反射的に手を伸ばしかける。けれど、同僚たちが次々と駆け込んでくるのを見て、その手を引っ込めた。
誰かが夏海の頬に残った手形に気づき、すぐに総務へ連絡する。
「白川さん、最近ちょっとやりすぎじゃない?プロジェクトを横取りして、人を突き飛ばして、そのうえ今度は暴力まで……」
「まさか、本当に社長が原因?」
「社長のマンションにも行ってたらしいし。前からちょっとおかしいと思ってた」
夏海は泣きながら首を横に振る。
「みんな、もう言わないで。白川さんは、たぶん私と社長の関係を誤解してるだけだから」
総務の責任者が湊を見る。
「社長、警察に連絡しますか?」
「社内で処理する」湊は冷たい声で言う。「白川はすべての業務から外す。調査結果が出るまで自宅待機にしてくれ」
私は痛みに耐えながら、なんとか体を起こす。
「じゃあ……彼女に殴られたことは?」
湊の視線が、私の頬に残る指の跡を捉える。その瞳が、一瞬だけ揺れる。
けれど夏海が先に口を開いた。
「私は殴ってない。証拠でもあるの?」
着替え室の監視カメラは、先週から故障している。
湊もそれを知っている。修理の申請書を、私が直接彼に渡していたから。
私は湊を見つめる。
「どっちを信じるの?」
「夏海が先に手を出すはずがない」
たったそれだけの言葉で。私が何を言っても、すべて無意味になった。
その日の午後。突然、ネット上に匿名の記事が投稿される。そこには、私が長期間にわたって会社の上司につきまとい、男女の関係を利用してプロジェクトを奪っていたという内容が書かれていた。
記事には、私が湊のマンションへ出入りする写真まで添えられている。
コメントは瞬く間に広がり、やがてクライアントとのグループチャットにも転載される。
青嵐側から、すぐに担当者を変更するよう会社へ申し入れが入る。
湊は私を会議室へ呼び出す。テーブルの上には、一枚の書面が置かれている。
「これにサインしろ。私的な交際トラブルが原因で、俺につきまとったと認めるんだ。会社はお前のポジションを残す」
私は一字ずつ、最後まで目を通す。
そこに書かれている私は、上司にしつこく付きまとい、同僚を陥れ、プロジェクトの成果まで横取りした人間になっている。
「サインしなかったら?」
「解雇だ」
「写真は本物よ」私は湊を見る。「私がどうしてあなたのマンションに行っていたのか……一番よく知ってるのは、あなたでしょう」
湊は声を落とす。
「だからこそ、俺がお前の尻拭いをしてる。ここまで騒ぎになれば、周りはお前が俺との関係を利用して出世したって言うだけだ」
「だったら、私たちの関係を公表して」
「今、公表したら、逆に噂が事実だと認めることになる」
「すぐに公表するって言ったよね」
「今このタイミングで、わがままを言うな」
会議室の外には、結果を待つ同僚たちが大勢集まっている。
そこへ夏海がドアを開け、一通のメールを印刷した紙をテーブルに置く。
「青嵐から、白川さんが私の企画を盗用したっていう通報が来ている。湊、会社としてクライアントに説明しないと」
その告発メールには、企画の制作履歴が何枚か添付されている。
けれど、作成日時の部分だけが切り取られ、残されているのは夏海の名前だけ。
湊が一目見る。
「サインしろ」
「この企画を誰が作ったのか、あなたは自分の目で見てたでしょう」
この三ヶ月間、私はマンションで何度も徹夜して、企画書を修正してきた。
湊は私のために牛乳を温めてくれたこともある。隣に座って、私が企画の全体像を話し終えるまで、ずっと聞いてくれた。
誰よりも真実を知っているのは、湊のはずなのに。
「会社の利益のほうが、個人の不満より大事だ」湊は私の前へボールペンを押し出す。「今は一度認めろ。騒ぎが収まったら、俺が埋め合わせる」
私は、そのペンを取らない。
総務、法務、そしてプロジェクトメンバーが次々と会議室へ入ってくる。
その場で誰かが私に問い詰める。
「白川さん、佐伯社長とは結局どういう関係なんですか?もしかして、ずっと個人的な関係を利用して、佐伯社長を脅してたんじゃないでしょうね?」
私は湊を見る。
「社長。私たち……付き合ってましたか?」
湊の指先が、ぴくりと止まる。
その隣には、夏海が立っている。彼女が静かに促す。
「みんな、答えを待ってるよ」
湊は私から目を逸らす。
「いえ」
二年間の抱擁も。「おやすみ」と交わした夜も。誕生日も、記念日も。そのすべてを、この瞬間、彼自身の口でなかったことにされる。
会議室に、嘲笑が漏れる。
私は書面を手に取る。
湊の表情が、少しだけ緩む。
「サインしたら、今日は帰れ。あとは俺が処理する」
私はその書面を、真ん中から破る。
一度。
そして、もう一度。
破り捨てた紙が、テーブルの上に散らばる。
「私たちが付き合っていなかったのなら……もう、仕事として処理しましょう」
私は退職届と、著作権の登録証明書を湊の前に置く。
「青嵐の企画書に関する著作権は、最初から私にあります。会社がプロジェクトを立ち上げる三ヶ月前に、すでに登録済みです」
湊の顔色が、わずかに変わる。
そのとき、会議室の外で法務担当のスマホが同時に鳴る。
電話に出た彼は、数秒話しただけで、勢いよく私を見る。
「社長、青嵐が契約を打ち切るそうです」
その言葉が終わる前に、二人の調査員が会議室へ入ってくる。
「白川さんから実名で申告を受けています。企画の著作権侵害と、職場での誹謗中傷について調査しますので、御社にはご協力をお願いします」