帝王切開の翌日、私は離婚を選んだ

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帝王切開の翌日、私は離婚を選んだ

GoodNovel 完結

帝王切開の翌日、私・早川知夏(はやかわ ちか)は離婚専門の弁護士を病院に呼んだ。 担当として来たのは、夫・五十嵐仁(いがらし じん)の実の妹、五十嵐玲央(いがらし れお)だった。 彼女は呆然としたまま、しばらく私を見つめる。顔には信じられないという表情が浮かんでいた。 「何考えてるの?昨日、やっと兄さんの子を産んだばかりじゃない!」 私は淡々と答えた。 「あなたのお兄さん、私が出産を終えるのも待たずに、志舞と一緒に船で海に出たの。 そんな夫と、まだ一緒にいるつもり?」 玲央は数秒黙り込んだあと、それでも兄を庇うように口を開いた。 「志舞さんは、離婚したばかりでひどく落ち込んでるの。兄さんは医者だから、放っておけなかったんだと思う。 責任を感じて、少し様子を見に行っただけだよ。そこまでして離婚することないじゃない。 子どもは生まれたばかりなのに……父親がいなくなってもいいの?」 私は冷めた目で彼女を見て、言葉を遮った。 「子どもに父親がいないんじゃない。父親のほうが、先にこの子をいらないと言ったのよ」 玲央の顔から血の気が引いた。彼女はおずおずと私の手を取った。 「お義姉さん……兄さんが志舞さんを気にかけてるのは確かだけど、それは小さい頃から一緒に育ってきた情があるからで…… 兄さんが愛してるのはお義姉さんだって、みんな分かってるよ。だから……離婚するの、やめない?」 期待に満ちた彼女の目を見つめ、私は口元をわずかに歪めた。そして手を引き抜き、法律事務所へ電話をかける。 「そちらの弁護士は、あまり腕がよくないようなので、別の弁護士に替えてください」

チャプター (1)

第1章

帝王切開の翌日、私・早川知夏(はやかわ ちか)は離婚専門の弁護士を病院に呼んだ。 担当として来たのは、夫・五十嵐仁(いがらし じん)の実の妹、五十嵐玲央(いがらし れお)だった。 彼女は呆然としたまま、しばらく私を見つめる。顔には信じられないという表情が浮かんでいた。 「何考えてるの?昨日、やっと兄さんの子を産んだばかりじゃない!」 私は淡々と答えた。 「あなたのお兄さん、私が出産を終えるのも待たずに、志舞と一緒に船で海に出たの。 そんな夫と、まだ一緒にいるつもり?」 玲央は数秒黙り込んだあと、それでも兄を庇うように口を開いた。 「志舞さんは、離婚したばかりでひどく落ち込んでるの。兄さんは医者だから、放っておけなかったんだと思う。 責任を感じて、少し様子を見に行っただけだよ。そこまでして離婚することないじゃない。 子どもは生まれたばかりなのに……父親がいなくなってもいいの?」 私は冷めた目で彼女を見て、言葉を遮った。 「子どもに父親がいないんじゃない。父親のほうが、先にこの子をいらないと言ったのよ」 玲央の顔から血の気が引いた。彼女はおずおずと私の手を取った。 「お義姉さん……兄さんが志舞さんを気にかけてるのは確かだけど、それは小さい頃から一緒に育ってきた情があるからで…… 兄さんが愛してるのはお義姉さんだって、みんな分かってるよ。だから……離婚するの、やめない?」 期待に満ちた彼女の目を見つめ、私は口元をわずかに歪めた。そして手を引き抜き、法律事務所へ電話をかける。 「そちらの弁護士は、あまり腕がよくないようなので、別の弁護士に替えてください」 第1話 玲央は私を押しとどめるように手を掴み、険しい顔をした。 「どうしてもそこまでするの?このままじゃ、兄さんに『お義姉さんが無理を言ってる』って思われるだけだよ。お義姉さんにとって何の得にもならない! ただ意地を張って、離婚を持ち出して脅して……子どものことまで考えてないじゃない!」 私は傍らですやすや眠る赤ん坊を見つめ、ふっと笑った。 無責任? 本当にその言葉を背負うべきなのは、仁のほうだ。 出産前、最後の妊婦健診で、医師はこう言った。 「妊婦さんは体調があまりよくありませんし、しかも珍しい血液型です。赤ちゃんの胎位は問題ありませんが、自然分娩できるかどうかはまだ分かりません。ご家族は来ていますか?一緒に分娩方法を決めましょう」 仁は来なかった。 離婚すると騒いでいる五十嵐志舞(いがらし しま)を慰めるのに忙しかったからだ。 分娩室に入る直前のLINEのやり取りは、今もそのまま残っている。 私が送った。 【あなた、お腹が痛い。もう生まれそうなの。今、あなたの病院に向かってるんだけど、勤務を代わって私に付き添ってくれない?】 彼からの返事。 【志舞さんが離婚するって決めたから、今は彼女に付き添って法律事務所で手続きをしてる。 子どもを産むだけなんだから、大したことないよ。できるだけ早くそっちに行く】 できるだけ早く。 彼はその言葉を、いったい何度口にしただろう。 初めて婚姻届を出しに行くはずだった日、私たちは出かける準備をしていた。 そのとき、志舞から電話がかかってきた。 家でガス漏れがあったという。 仁は手にしていたものを置くと、そのまま出て行こうとした。 私は言った。 「今日、私たち婚姻届を出しに行くんだよ」 彼が残した言葉は、「できるだけ早く戻る」という一言だけだった。 そう言って、振り返りもせず家を出て行った。 結局、その日も婚姻届は出せなかった。 二度目に婚姻届を出し終えた日もそうだった。 役所を出たばかりのところで、志舞からまた電話がかかってきた。 「明日は父の命日なの。まだいくつか用意できてないものがあるんだけど、手伝いに来てもらえる?」 お祝いの言葉さえ交わす暇もなく、彼は私を置いて、振り返りもせず去っていった。 「志舞さん……焦らないで。すぐ行くから」 あの頃、私は25歳だった。 彼はただ情に厚くて、志舞を実の姉のように大切にしているだけなんだと思っていた。 今、28歳、子どもが生まれたその日になって、私はようやく現実を受け入れた。 あれは、情に厚いかどうかなんて話じゃなかった。 彼の心の中にある天秤は、最初から正しく置かれていなかったのだ。 何が大切なのか、何を優先すべきなのか。彼には、永遠にその区別がつかなかった。 第2話 「何か言ってよ!黙ってないで」 玲央の声に、私は現実へと引き戻された。 私が口を開こうとしたそのとき、病室のドアが開いた。 潮の匂いをまとった仁が入ってきた。顔には満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに私のもとへ歩み寄る。 そこには、見慣れた機嫌取りのような表情が浮かんでいた。 この何年間、志舞のもとから帰ってくるたび、彼はいつも寸分違わぬ笑みを浮かべていた。 「知夏、君も赤ちゃんも大丈夫か?」 彼はベッドの脇に腰を下ろし、子どもに手を伸ばそうとした。 私はさりげなくその手を遮った。 彼の手が宙で止まった。申し訳なさそうな顔をして、彼は言った。 「志舞さんが離婚すると言って騒いで、昨晩手首を切ったんだ。救急搬送されて一命は取り留めたけど、そのあとずっと情緒が不安定で…… 俺は医者だし、弟同然の立場でもある。目の前で何か起きるのを黙って見てるわけにはいかなかったんだ」 「じゃあ、彼女の命は大事で、私と子どもの命はどうでもいいの?」私は彼の言葉を遮った。 分娩室に入る前、私は痛みで全身が震えていた。それでも彼に3度電話をかけた。どれも、誰にも繋がらなかった。 結局、看護師から聞かされたのは、彼が「家で急な用事があるから行けない。何かあったら付き添いの介護士に頼んでほしい」と伝言を残していたということだった。 そのときにはもう、彼の言う「急な用事」が志舞のことだと分かっていた。 結婚してからというもの、私たちが何かの予定を立てるたび、志舞は決まったように何かしらの問題を起こした。 3年間、そんな茶番が何度繰り返されたことか。 夫婦喧嘩、家族の病気、家電の故障、気分が落ち込んでいる……理由はいくらでもあった。 けれど、結末だけはいつも同じだった。 私の夫は必ず私を置いて、家庭のある別の女のもとへ駆けつける。 仁はため息をつき、少し困ったような口調で言った。 「知夏、そんなに怒るなよ。俺と志舞さんは小さい頃から一緒に育ってきたんだ。 子どもの頃、彼女には命を救ってもらったこともある。実の姉みたいな存在なんだ。 だから、彼女のことを放っておくわけにはいかない」 私は赤ちゃんの柔らかな小さな手を撫でながら、冷笑した。 「そんな話であなたと争うつもりはない。今は子どもがいる。この子まで私と一緒に辛い思いをさせるわけにはいかないから。 ちょうどあなたも来たことだし、離婚協議書について話し合いましょう」 彼は一瞬呆気に取られ、途端に慌てた様子になった。 「俺が君と子どもを粗末にするわけないだろ! 知夏、もうこんなことするのはやめよう。子どもは生まれたばかりなんだ。父親がいなくちゃ可哀想だろ。 約束する、これからは俺も変わる。志舞さんのところには、もう住み込みの家政婦を手配した。これからは身の回りのことには俺は一切口を出さない。 本当に何か大変なことがあったら、玲央に先に行ってもらう。 これからは仕事が終わったら真っ直ぐ家に帰って、君と赤ちゃんのことだけを考える。 ちゃんと二人に寄り添う。それでいいだろ?」 彼の言葉には誠意があり、その目には私が見慣れた罪悪感と優しさが浮かんでいた。 もし以前の私だったら、きっともう頷いていただろう。 けれど、分娩室で十数時間耐えた陣痛、誰にも頼れない恐怖、そして、携帯電話に残った3度の不在着信……それらが、針のように心に突き刺さっていた。 私は赤ちゃんのベビーベッドへ目を向けた。 あまりにも小さく、まだ皺だらけの体を丸めている。 それでも私は、最後には心を軟化させてしまった。 「仁、あなたに3回だけチャンスをあげる。 3回目までに、また志舞を私や子どもより優先したら、離婚するから」 彼は一瞬呆然としたが、すぐにほっとしたように息を吐いた。 私が折れたと思ったのだろう。 いつだってそうだった。 私が怒り、彼が宥め、最後には私が許す。 「分かった」彼はことのほかあっさり答えた。「約束する。これからは君と俺たちの息子のそばにいる。もうどこにも行かない」 赤ちゃんは「あー、うー」と声を上げながら、私の腕の中でにっこり笑った。 第3話 彼も笑った。 「この子、本当に君にそっくりだな」 私はその小さな顔を見つめながら、心は驚くほど穏やかだった。 この3回のチャンスは、彼に逃げ道を与えるためのものじゃない。 私自身と、この子のために引いた最後の一線だ。 3回目を過ぎたら、私はもう絶対に振り返らない。 …… 産後3日目の午前4時、私は傷の痛みで目を覚ました。 切開したところが焼けるようにずきずき痛み、張り詰めた胸は硬くなった母乳のせいで重苦しい。 暗闇の中、ナースコールを押そうと手を伸ばす。けれど、隣には何もなかった。 付き添い用のベッドには誰もいない。 掛け布団はすっかり冷え切っていて、きれいに畳まれていた。 スマホの画面には、五十嵐家の親族のグループチャットから数十件もの未読メッセージが表示されている。 姑の五十嵐歩美(いがらし あゆみ)が午前2時に送った写真だった。 仁がコートを羽織ったまま志舞の家のリビングに座り、その隣では志舞が俯いて泣いている。 その写真には、一文が添えられていた。 【仁くんは志舞ちゃんのことが心配で、こんな夜中にもわざわざ駆けつけて付き添ってくれている。本当に優しいね。志舞ちゃんのご両親も、あの世から見て安心していることでしょう】 その下には、親戚たちが口々に同意するメッセージが並んでいた。 責任感がある、恩を忘れない、立派な男……そんな言葉ばかりだった。 私は時間を計算した。 昨夜10時から午前4時まで、仁は志舞のところに6時間もいた。 その一方で、私は生まれたばかりの子どもと一緒に、誰にも気にかけてもらえず病院に取り残されていた。 痛みが少し引くのを待って、私は携帯電話を手に取り、彼に電話をかけた。 1度目は出なかった。 2度目は10回近く呼び出して、ようやく繋がった。 電話の向こうはひどく静かで、かすかに女のすすり泣く声が聞こえる。 「知夏?どうして起きたんだ?傷が痛むのか?」 彼の声はひどく小さく、わずかに焦りが滲んでいた。 「どこにいるの?」私は尋ねた。 彼は一瞬黙り、何でもないことのように答えた。 「ちょっと急な用事が入ったんだ。今、救急の患者を受け入れたから、こっちに来て様子を見てる。すぐ病室に戻るから」 彼は、私が出産を終えたばかりで、家族のグループチャットを見る余裕などないと思っていた。 まさか私に嘘を見抜かれるなんて、考えもしなかったのだろう。 私は何も言わず、淡々と告げた。 「熱が出たみたい。今、赤ちゃんが吐き戻してる。傷が痛くて私じゃどうにもできないし、介護士もまだ来てないから、一度戻ってきて」 彼はすぐに緊張した。 「大丈夫か?むせたりしてないか?今すぐ……」 その言葉を遮るように、突然、電話の向こうから歩美の泣き叫ぶ声が響いた。 続いて、何かが床に落ちて割れる音がした。 「仁くん!志舞ちゃんが手首を切ったの……!早く来て……!」 そこへ玲央の切迫した声も重なった。 「兄さん、早く止血用の包帯を持ってきて!」 周囲が一気に騒がしくなる。 しばらくして、仁の声が聞こえる。明らかに焦っていて、早口になっている。 「知夏、先に看護師さんに君と赤ちゃんの様子を見てもらって。こっちはどうしても離れられないんだ。慌てるな。こっちが片付いたら、すぐ戻るから」 そこで電話は一方的に切れた。 もう一度かけ直しても、もうつながらなかった。 私はベッドの背もたれに寄りかかり、ゆっくりと息を吐いた。 傷はまだ痛んでいる。胸も張って、石のように硬くなっていた。 私は痛みに耐えながら体を起こし、赤ちゃんに授乳後のげっぷをさせ、口元を拭いて、身の回りを整えた。 そして携帯電話を手に取って初めて、10分前に彼からメッセージが届いていたことに気づいた。 【急きょ合同カンファレンスが入ったから、ちょっと対応してくる。すぐ戻る。痛みがひどかったら我慢せず看護師さんを呼んで】 その下には、さらに一言。 【胸が張ったら、温かいタオルで温めて。ひどい時は、介護士にすぐ伝えるんだ】 私はそのメッセージをじっと見つめた。 すると、付き合い始めたばかりの頃をふと思い出した。 あの頃、私は病気になっても、いつも一人で我慢する癖があった。そんな私のそばで、彼は目を赤くしながら付き添ってくれた。 「もっと甘えていいんだよ。俺に頼ればいい。何も我慢しなくていいから」 そう言ってくれたのだった。 第4話 いったいいつから、変わってしまったのだろう。 たぶん、志舞が海外から帰ってきてからだ。 志舞は、いつの間にか私よりも優先される存在になっていた。 彼の私への気遣いは、次第に口先だけの忠告になり、足はいつだって他の誰かのもとへ向かう。 私はスマホを脇に置き、そっと手を伸ばして、赤ちゃんの柔らかな頬に触れた。 「1回目……」 私は小さく呟いた。 赤ちゃん、この1回が最初だよ。 彼は一度、チャンスを使った。 …… 出産直後で体力が落ちていた私は、熱が出ていた。熱が下がり始めたのは、夕方になってからだった。 仁が病室に来たのは、夜の7時を過ぎてからだった。 「どう?まだつらい?」 入ってくるなり、彼は手を伸ばして私の額に触れようとした。 私は顔を背けた。 彼の顔に罪悪感が浮かんだ。 「ごめん、知夏。志舞さんがまた自殺しようとして……危うく助からないところだった。母さんも玲央も怖くて泣きっぱなしで、俺もどうしても離れられなくて……」 「じゃあ、私と赤ちゃんは?」 「えっ?」 私は彼をまっすぐ見つめた。 「もし今日、私が高熱で意識を失って、赤ちゃんが吐き戻したものを喉に詰まらせて死んでいたとしても、あなたは志舞さんのことが落ち着いてからじゃないと戻ってこなかったの?」 彼の顔色が変わった。 「そんな言い方するなよ……それでも俺は戻ってきただろ?それに、君は病院にいるんだから、何かあったって大したことないだろ?」 私は笑った。 「仁、私は今日、39度まで熱が上がった。乳腺炎に傷口の感染まで重なって、痛くて腕を上げることもできなかった。 あなたに3回電話したのに、2回は出なかった。最後の1回だって、『終わったら戻る』って言っただけ。もし本当に何かあったら、今頃私はもうこの世にいなかったかもしれない」 「だから、看護師を呼べって……」 彼の目には、申し訳なさなど微塵もなかった。 私は笑った。 「看護師に、私一人につきっきりでいる義務なんてないでしょう! 医者が何て言ったか忘れたの?産後の感染症は軽く済むこともあれば、重症化することだってある。ひどければ敗血症になって、ショックを起こすことだってあるのに……」 彼は苛立ったように髪をかきむしった。 「分かってる!でも志舞さんは意識が朦朧としてるし、母さんには心臓病がある。もし何かあったら、俺は一生自分を責めることになる!」 「じゃあ、私と子どもに何かあったら、あなたは悲しくないの?」私は静かに尋ねた。 彼は言葉を失い、気まずそうに視線を逸らした。 私は体の向きを変え、彼に背を向けて目を閉じた。 背後は長いこと静まり返っていた。 やがて、彼が声を落として電話をかけるのが聞こえた。 「母さん、知夏が今日はかなり熱を出してて……分かってる。志舞さんから目を離せないのも分かってる……分かった。俺もあとで様子を見に行く」 私は枕に寄りかかり、隣ですやすや眠る赤ちゃんの体を撫でながら、笑った。 笑っているうちに、涙がこめかみを伝った。 点滴が半分ほど進んだ頃、彼のスマホがまた鳴った。 彼は画面を一瞥して、切った。 また鳴った。 また切った。 3度目に鳴ったとき、彼は立ち上がり、廊下へ出て電話に出た。 「分かってる。でも、知夏は本当に具合が悪くて……何?志舞さんが屋上に行ったって!?いつの話だ?焦るな、俺がすぐ行く!」 彼が病室に戻ってきたとき、その顔は焦りで強張っていた。 「知夏、志舞さんが一人で病院の外来棟の屋上に行った。誰が何を言っても聞かなくて、俺にしか会おうとしないんだ。俺、行ってくる。遅れたら何かあるかもしれない」 私は鼻で笑い、目を上げて彼を見つめた。 「あなたにしか会わない? 本当に死ぬつもりなのか、私もこの目で確かめてみたいわ。 生まれたばかりの子どもと妻を置いてまで、わざわざ駆けつけさせるほどなのかって」 私の言葉に棘があるのを感じ取ったのか、彼の顔が険しくなった。 彼は一気に窓際まで駆け寄り、カーテンを開けた。 「見ろよ!嘘なんかついてない。この角度なら屋上が見える!」 彼は焦ったように、部屋の中を何度も行ったり来たりした。 第5話 「彼女は今、手すりのすぐそばに立ってるんだ。もし本当に飛び降りたらどうする!俺は少し説得しに行くだけだ。連れ戻したら、すぐ病室に戻る」 私は彼の狼狽した目を見つめながら、心が少しずつ凍っていくのを感じていた。 これが彼だ。私の夫。 彼にはいつだって、もっと急いで救わなければならない人がいる。 いつだって、放っておけない責任がある。 私と子どもは、いつだって後回しだ。また少し待たされる。 私が何も言わなくなると、彼は病室を飛び出していった。 ほどなくして、向かいの屋上に彼の姿が現れた。 私は傷口の鈍い痛みに耐えながら、壁に手をつき、ゆっくりと窓辺まで歩いていった。 入院病棟から真正面に見える外来棟の屋上、そこにいる人影が、はっきりと見えた。 志舞は薄いネグリジェ姿で手すりのそばに立っていた。 仁が駆け上がってくるのを見ると、すぐに泣きながら彼の胸に飛び込んだ。 彼は両腕でしっかりと彼女を受け止め、何度も背中を優しく叩きながら、顔を寄せて耳元で低い声で慰めている。 風に煽られた彼女の長い髪が、彼の襟元に絡みついていた。 遠目には、苦難を共に乗り越える恋人同士のように見えた。 私は窓枠につかまりながら、ゆっくりとその場にしゃがみ込んだ。 下腹部がずきずきと痛む。 「2回目……」 私は誰もいない空間に向かって、静かに呟いた。 赤ちゃん、これで2回目だよ。 また彼は、私たちではなく他の人を選んだ。 …… 病床に戻って間もなく、下腹部の鈍い痛みが、次第に強くなっていった。 私は苦労して体の下に手をやってみた。手のひらは、べったりと血で濡れていた。 ちょうどそのとき、付き添いの介護士が入ってきた。顔を真っ青にすると、すぐに病室を飛び出して医師を呼びに行った。 医師の診察が終わると、その表情は重く沈んでいた。 産後出血を起こしていて、傷口の感染が子宮内にまで広がっているという。 止血薬と強力な抗生物質が、すぐに投与された。 私は痛みに耐えながら仁にメッセージを送り、出血がひどくなっていて状態が良くないから戻ってきてほしいと伝えた。 けれど、メッセージは梨のつぶてだった。 電話をかけても、ずっと繋がらない。 仁が病室のドアを開けたのは、翌日の朝になってからだった。 目の下には濃い隈ができ、全身から疲労が滲んでいる。 入ってくるなり、彼は無意識に口を開いた。 「志舞さんは昨夜、ようやく容体が落ち着いた。屋上で風に当たって熱を出してたけど、少し安定したところで眠ったんだ」 私は何も答えなかった。 彼は何気なくコートを脱いで置き、水を取ろうと振り返った。 そのとき、視界の端にベッド脇の診療記録が入った。 彼はそれを手に取って目を通すなり、顔面を真っ青にした。 「どうしてここまでひどくなったんだ?なんでもっと早く俺に言わなかった?」 私は彼を見つめ、淡々と答えた。 「昨夜、メッセージを送った。電話も3回した。でも、あなたは一度も返さなかった」 彼は喉を鳴らし、言い訳するような口調になった。 「昨夜はずっと志舞さんのそばについてて、離れられなかった。スマホもマナーモードにしてたんだ…… 君は病院にいるんだから、医者や看護師がついてるし、大丈夫だと思ってた」 「大丈夫だと思ってた」 私はその言葉を繰り返し、口元をわずかに歪めた。 「仁、聞かせて。もし昨夜、私が大量出血でショック状態になって、救命処置室に運ばれていたとして。 それでも志舞から電話がかかってきて、『苦しい』って言われたら、あなたは行った?」 彼は勢いよく顔を上げた。 「もちろん行かない!」 「じゃあ、もし彼女が『また死にたくなった』って言って、あなたじゃなきゃ嫌だと言ったら?」 彼は黙り込んだ。 体の横に垂らしていた手を握っては緩め、結局、「行かない」と断言することはなかった。 沈黙こそが、何よりもはっきりした答えだった。 私は目を閉じ、深く息を吸った。 「仁、これが最後のチャンスだから。 今日からあなたは病室にいる。スマホは絶対にマナーモードにしない。志舞のところで何が起きても、絶対に行かない。それができる?」 彼の目に、たちまち安堵の色が浮かんだ。 彼は何度も頷いた。 「できる。約束する。今度こそ、絶対に言ったことは守る」 第6話 私は自嘲気味に笑うと、目を閉じて言った。 「最後に一度だけ、あなたを信じる」 午前中いっぱい、仁はずっと私と赤ちゃんのそばにいた。 病室から一歩も出なかった。 彼は私たちの赤ちゃんを抱き、まるで誇らしげに見せつけるように笑った。 「知夏、見てくれ。俺だってできるんだ。これからずっと、君と子どものそばにいる。 もう意地を張るのはやめよう。これからはずっと仲良くやっていこう。な?」 私は何も答えず、窓の外へ視線を向けたまま、心の中で静かにカウントしていた。 今回は、どれくらいもつだろう。 午後になって、突然胸が苦しくなり、動悸がして、血圧が急激に下がった。 医師を呼んだ直後、仁のスマホが鳴った。 歩美からの電話だった。 その甲高い声は、スマホ越しでもはっきり聞こえた。 「仁くん!早く来て!志舞ちゃんの元夫が病院に乗り込んできたの!しかも刃物まで持ってる!」 仁の体が強張った。そして、青ざめた私を見た。 「知夏、俺……」 「約束を忘れないで」 私は息を切らしながら、彼の服の裾を掴んだ。 「分かってる。でも聞いただろ?あの男、刃物を持ってるんだぞ!本当に人が死んだらどうする?」 彼は私の手をほどき、そのまま背を向けた。 「ここには医者も看護師もいる。大丈夫だから。ちょっと様子を見て、すぐ戻ってくる」 バタン。 ドアが閉まった。 彼の足音が、廊下の奥へと消えていった。 私は自嘲するように笑った。 次の瞬間、目の前が真っ暗になり、意識を失った。 次に目を覚ましたとき、私はすでに集中治療室にいた。 体中に管がつながれ、胸が苦しくて息をするのもままならない。 母がベッドのそばで泣いていた。 目は泣き腫らして、まるでクルミのようになっている。 私が目を覚ましたのに気づくと、母はしゃくり上げながら言った。 「産後の痙攣で、肺に羊水が流れ込んでしまって、誤嚥性肺炎を起こしたの。もう少しで……本当に危なかったのよ。3時間も救命処置をしたんだから……」 私は口を開いた。けれど、出てきた声は掠れていた。 「彼は……?」 母は顔を背け、さらに激しく涙をこぼした。 聞かなくても分かった――彼は戻ってこなかった。 枕元のスマホが震えた。 私は力を振り絞って手に取り、画面を確認した。 志舞からのメッセージだった。 【知夏、仁くんからあなたがひどく具合を悪くしたって聞いた。ごめんなさい。今日は私の元夫が騒ぎを起こして、また彼に迷惑をかけちゃったね。 彼を責めないでね。彼は優しいから、私が可哀想な目に遭っているのを見ると放っておけないの。 私の体調がもう少し良くなったら、あなたのお見舞いに行くね】 私はそのメッセージを見つめ、ふいに笑った。 なんて聞き慣れた台詞だろう。 彼が彼女のために私を置き去りにするたび、彼女は決まって後からこんな「謝罪」を送ってきた。 一見、申し訳なさそうにしている。 けれど、その実、ただの当てつけだった。 私は返信した。 【来なくていい】 そして、写真アプリを開いた。 3年間の思い出が、すべてそこに残っていた。 年越しの花火の下、彼が俯いて私にキスする瞬間を撮った写真。 婚姻届を出した日に、婚姻証明書を握りしめて馬鹿みたいに笑っていた彼のスクリーンショット。 初めて胎児の心拍を確認したとき、震える手で撮ったエコー写真…… 私は指先を滑らせながら、一枚も迷うことなく、すべてのツーショット写真を選択して削除した。 プログレスバーがゆっくりと最後まで進んでいく。 まるで、この3年間に抱いていた期待も執着も、すべて一緒に消していくようだった。 そのとき、集中治療室のドアが開いた。 仁が入ってきた。 服は乱れ、目には隠しきれない狼狽が浮かんでいる。 目を覚ましている私を見つけると、彼は数歩で駆け寄ってきた。 「知夏、死ぬほど心配した。大丈夫か?痛くないか?」 「仁」私は彼の言葉を遮った。声は小さかった。 けれど、一言一言ははっきりと彼の耳に届いた。 「3回のチャンス、あなたは全部使い切った。私たち、離婚しましょう」 彼は呆然と立ち尽くした。 手に提げていた保温容器が、ガシャンと大きな音を立てて床に落ちた。

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