森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します

プロモーションを読み込み中...

森宮社長、奥様は娘を連れて離婚します

GoodNovel new 完結

朝比奈澪(あさひな みお)の結婚には、二つだけ秘密があった。 一つ目は、森宮家が彼女を嫁として認めていないこと。そして家族ぐるみで、森宮征司(もりみや せいじ)に黙っていたまま、結婚前に離婚協議書に署名させていたこと。 この結婚は最初から七年しか続かない運命だった。 二つ目は…… 澪が征司に黙って娘を産んだこと。 結婚して七年。征司は、自分に五歳の娘がいることさえ知らなかった。 七年もそばにいて、ひたむきに尽くしていれば、いつか征司も心を開いてくれるはずだと思っていた。 けれど、離婚まであと三か月に迫った頃、澪は思いもよらない事実を知ってしまう。 ーー征司がずっと忘れられない相手は、従弟の婚約者だ。 七年も尽くしてきた自分がたまらなく惨めで、馬鹿みたいだと思えた。 澪の心は、完全に冷え切った。 もう、二人の間に子供がいることを打ち明けるつもりはない。 離婚して、征司とはきっぱり縁を切り、娘と二人で生きていく。 彼は父親なんかじゃない。ただDNAを残しただけだ。 ところが、世間からただの専業主婦と見下されていた澪は、やがて表舞台へ返り咲き、史上最年少で医学賞を受賞した。 かつて彼女を冷たくあしらい続けた征司は、そこで初めて思い知った。 澪はとっくに離婚を決めていて、もう自分なんて必要としていなかった。 そして、娘の存在までもが世間に知られることになる。 いつも冷淡で、何にも執着しないはずの征司が、大勢の前で澪を追い詰め、歯を食いしばって言った。 「離婚だって?俺を捨てて子供だけ連れていくだと?澪、お前は俺を殺す気か?」 澪は娘の手を引いたまま、静かに笑った。 「森宮社長、言っとくけど、この子は穂積(ほづみ)の子よ。森宮家の子じゃない」

チャプター (1)

第1章

朝比奈澪(あさひな みお)の結婚には、二つだけ秘密があった。 一つ目は、森宮家が彼女を嫁として認めていないこと。そして家族ぐるみで、森宮征司(もりみや せいじ)に黙っていたまま、結婚前に離婚協議書に署名させていたこと。 この結婚は最初から七年しか続かない運命だった。 二つ目は…… 澪が征司に黙って娘を産んだこと。 結婚して七年。征司は、自分に五歳の娘がいることさえ知らなかった。 七年もそばにいて、ひたむきに尽くしていれば、いつか征司も心を開いてくれるはずだと思っていた。 けれど、離婚まであと三か月に迫った頃、澪は思いもよらない事実を知ってしまう。 ーー征司がずっと忘れられない相手は、従弟の婚約者だ。 七年も尽くしてきた自分がたまらなく惨めで、馬鹿みたいだと思えた。 澪の心は、完全に冷え切った。 もう、二人の間に子供がいることを打ち明けるつもりはない。 離婚して、征司とはきっぱり縁を切り、娘と二人で生きていく。 彼は父親なんかじゃない。ただDNAを残しただけだ。 ところが、世間からただの専業主婦と見下されていた澪は、やがて表舞台へ返り咲き、史上最年少で医学賞を受賞した。 かつて彼女を冷たくあしらい続けた征司は、そこで初めて思い知った。 澪はとっくに離婚を決めていて、もう自分なんて必要としていなかった。 そして、娘の存在までもが世間に知られることになる。 いつも冷淡で、何にも執着しないはずの征司が、大勢の前で澪を追い詰め、歯を食いしばって言った。 「離婚だって?俺を捨てて子供だけ連れていくだと?澪、お前は俺を殺す気か?」 澪は娘の手を引いたまま、静かに笑った。 「森宮社長、言っとくけど、この子は穂積(ほづみ)の子よ。森宮家の子じゃない」 第1話 結婚して七年。 朝比奈澪(あさひな みお)は夫の森宮征司(もりみや せいじ)に知られずに、ひそかに娘を産み育ててきた。 娘の穂積玲衣(ほづみ れい)は今年五歳になるが、征司はその存在さえ知らない。父親になる機会を、澪が最初から与えなかったからだ。 夜勤の休憩に入ると、澪は隣のS県でひっそり育てている娘から届いたボイスメッセージを再生した。 「ねえママ、私、なんでパパに会ったことないの?私のパパって、もう死んじゃったの?」 まだ舌足らずな、甘えた声が流れてくる。 澪は一瞬、本気で考えた。生きてはいる。でも、父親としては死んだも同然だった。 最近、玲衣は少しずつ自分なりの考えを持つようになってきた。 小さな頭の中に、ひとつ悩みができたらしい。 自分は実の父親に一度も会ったことがない、ということ。 その疑問は、日ごとに大きくなっている。 そのせいで澪は、征司に打ち明けるべきかどうか、真剣に迷い始めている。 実は五歳になる娘がいるのだと。育児で一番手のかかる時期はもう過ぎている。今さら苦労もなく父親になれるなんて、ずいぶん都合のいい話ではないか。 玲衣とのトーク画面を閉じて、澪はふと日付を確かめた。 気づけば、征司との結婚生活はもう残り三か月ほどだ。 少し迷った末、澪は征司とのLINEを開いた。ほとんどやり取りのないトーク画面に、ゆっくりと文字を打ち込んだ。 【もし、私たちに子供がいたとしたら、あなたは……】 送信する前に、診察室のドアが慌ただしく開いた。 若い看護師が顔をのぞかせ、早口で澪を呼んだ。 「澪さん、急患です!妊娠初期の患者さんで、性行為のあと強い腹痛が出たそうです。かなり無理があったようで、黄体嚢胞が破裂する疑いがあります!」 澪はすぐにスマホの画面を消して、立ち上がると、眉を寄せたまま看護師の後について急ぎ足で外へ出た。 「もう、何を考えてるの。妊娠初期にそんな無茶をするなんて……少しは我慢できないの?」 看護師がカーテンを開けた瞬間、澪はそこで言葉を止めた。 ベッドに横たわっているのは、見覚えのある女だった。 二秒ほど遅れて、澪は驚きを隠せないまま相手の名を呼んだ。 「紗耶さん?」 白石紗耶(しらいし さや)は、征司の従弟の婚約者だ。 紗耶も澪を見た瞬間、ほんのわずかに動きを止めたが、返事はしなかった。 澪は反射的に彼女の状態を確認した。 紗耶の婚約者である征司の従弟は、五か月前に会社の帳簿をめぐる不正で懲役一年六か月の実刑判決を受け、今も服役中だ。 紗耶のお腹はまだ目立っておらず、見ただけでは妊娠しているとは分からない。仮に妊娠しているとしても、まだ初期のはずだ。 だとすれば、時期が合わない。 だが、今はそんなことを考えている場合ではない。澪は余計な詮索の念を胸の奥に押し込み、医療用手袋を手に取った。 「横になってください。診察しますから」 ところが紗耶は、急に身を起こした。澪が現れたことが不快でたまらない、という顔で言った。 「結構です。転院しますので」 若い看護師が困ったように澪を見る。 澪は静かに言った。 「転院するにしても、その前に状態だけは確認させてください。放っておくと危ないかもしれません」 紗耶は眉をひそめた。 澪の、どこか隙のない凛とした態度が気に入らない。 澪はそれ以上言い合わなかった。今は感情を挟んでいる場合ではない。 「少しお腹を見るだけですから」 そう告げて身をかがめ、紗耶の服の裾に手をかけた。 その瞬間、紗耶が冷たく唇を歪め、澪の手を払いのけた。 ぱん、と乾いた音が響いた。 思ったより強い力で払われ、手の甲に鋭い痛みが走った。 目を落とすと、そこはすでに赤くなっている。 澪が反応するより早く、紗耶は急に声色を変え、澪の背後へ甘えるように呼びかけた。 「征司……」 その名に、澪は手の痛みも忘れて振り向いた。 男は落ち着いた足取りで近づいてくる。 コートを腕にかけ、すらりとした長身がそこにいるだけで人目を引いた。品のある佇まいに、誰もが目を奪われてしまう。 征司は一瞬だけ澪と目を合わせた。けれど、すぐに何事もなかったように視線を外した。 彼は足を止めることもなく、冷ややかに目をそらして、赤の他人のように澪の横を通り過ぎ、ベッドの反対側へ回った。 低く澄んだ声には、わずかな心配がにじんでいる。 「具合は?」 澪はその場で息をのんだ。 紗耶の付き添いとして駆けつけてきたのが、よりにもよって征司だとは。 七年間、夫婦であることを周囲に伏せてきた、自分の夫だ。 征司の意識がすべて紗耶に向けられている。 それを見た瞬間、澪はふと思いついた。 彼は、さっき紗耶が自分の手を強く叩いたところを見ていたのだろうか。 征司に気遣われ、紗耶は固まったままの澪をちらりと見て、ほんの一瞬、勝ち誇ったような色をその目に浮かべた。 それから征司を見上げ、甘えるような声で言った。 「知ってるでしょ。お腹が痛くて、病院に来たの」 その一言で、周りの看護師は察してしまった。 つまり、例の「激しい性行為」の相手は、目の前の男だということだ。 征司は否定もせず、説明することもなかった。 澪はただその光景を見つめ、反応することすら忘れていた。 夫は目の前で、従弟の婚約者を当然のように気遣っている。 征司はもともと感情を表に出さない男だ。 けれど、二人の間に流れる空気がただならないことくらい、澪にも分かった。 まして紗耶が救急に運ばれた理由を、夫は知っている。 その事実に気づいた澪の体に悪寒が走った。 これまで澪は、征司はもともと誰に対しても淡泊な人なのだと思っていた。 愛し方を知らない人なのだと。 けれど、違う。 彼は人を愛することができないわけではない。ただ、その相手が自分ではないだけだ。 この局面とその相手があまりにも滑稽すぎて、彼女は思わず笑い出しそうになった。 例の「激しい性行為」の相手が誰なのか。そんなことは誰が見ても分かる。 澪がその場に立ち尽くしていると、征司がようやくこちらを見た。その冷ややかな一瞥に、澪ははっと我に返った。 手袋をはめ、診察しようとする手がかすかに震える。 さっき叩かれた手の痛みが、今になってじわじわと広がってきて、頭の中が真っ白になった。 ここまで来れば、答えはもう出ている。わざわざ確かめて、これ以上惨めになる必要などない。 征司が澪に何も言わないのを見て、紗耶はすべてを察したように、唇の端をわずかに上げた。 彼女は澪に聞かせるように、わざと甘えた声で言った。 「征司、私、転院したい。ちゃんと診てくれる病院に連れてって」 「分かった」 征司は迷わなかった。 紗耶が何を望んでも、彼は当然のように叶えるのだろう。 二人の間には、他人が入り込めないほどの親密さがある。 長年、目の前の男を深く愛してきた妻として、澪にそれが分からないはずがない。 その光景は見ているだけで、胸の奥が少しずつ裂けていくようだった。 紗耶の「もっとちゃんと診てくれる病院」という含みのある言い方に、澪はすぐ気づいた。 転院したいというのは、ただの口実だ。彼女が本当に言いたいのは、澪には診てもらいたくない、澪なんか信用できない、ということだった。 征司は慣れた様子で転院の手配を進め、その間も澪に声をかけることはなかった。まるで彼女がそこにいないかのように、最後まで一度も振り返らなかった。 二人が診察室を出て行ったあとも、澪はしばらく、その衝撃から抜け出せなかった。 一部始終を見ていた同僚たちは、すぐに熱のこもった噂話を始めた。 「うわ、最近の若者ってほんとすごいね」 若い看護師は目を輝かせている。 「でも、あの男、ずば抜けてかっこいいわ。あっちのほうも凄そうだよね!」 澪はうつむいたまま、どこか上の空で、手につけた医療用手袋をゆっくり外していく。 「そう」 看護師は澪の反応の薄さにも気づかず、ふいに声を落として聞いてきた。 「そういえば澪さんも、結婚してけっこう経ちますよね?お子さんはいないんですか?」 澪は手袋をゴミ箱に捨てた。 「うちの夫、EDで、治療を受けてるところなの」 第2話 若い看護師ははっと口をつぐみ、気まずそうな顔をした。 まさか澪が、夫の弱みをあんなに平然と口にするとは思わなかったのだ。 けれど同時に、それは本当なのだろうとも思った。 そうでなければ、結婚して七年も経つのに子供がいないなんて、どう考えてもおかしい。 そのせいで、彼女の澪を見る目にはさらに同情が増した。 澪は、本当の理由までは口にしなかった。 征司は最初から澪との間に子供を持つつもりなどない。 結婚した最初の夜、彼は氷のように冷めた声で、澪にこう告げた。 「仕事が忙しい。子供のことまで考える余裕はないし、持つつもりもない。だから、期待するな。相談しようとしても無駄だ」 あの頃の澪は、征司の言葉を疑わなかった。本当に仕事が忙しく、子供どころではないのだと思っていた。 けれど今なら分かる。征司が子供を望まなかったのは、忙しかったからではない。 子供ができれば、大切な女が傷つくかもしれない。彼はきっとそう考えているのだろう。 ついさっきまで、征司に娘の存在を打ち明けようとしていた自分が馬鹿みたいだ。 足音が再び近づいてきて、澪が顔を上げると、征司の底の知れない目と正面からぶつかった。 征司は会計を済ませたばかりらしく、手には病院の書類を持っている。 澪を見るその目は、赤の他人に向けるものよりも冷たい。 さっきの「ED」という発言を、征司は聞いていたのだろうか。 一瞬そんな考えがよぎったが、すぐにどうでもよくなった。 彼にどう思われても、もう気にする理由がない。 征司はすぐに視線を外し、何事もないように背を向けて去っていった。 澪は驚かなかった。 征司はいつもそうだ。 澪に苛立っていることも、関心がないことも、彼女に向き合うつもりがないことも、隠そうともしない。 喧嘩をしたいと思っても、そもそも喧嘩にすらならない。 言いたくても言えなかった言葉だけが、毎日少しずつ彼女の胸の奥に溜まっていく。 夫はいても、頼れる相手はいなく、心を預けられる場所もない。 だからこそ澪は、あのとき娘を産むことを決めた。征司には何も知らせず、自分ひとりで育てると。 澪は重い足取りで診察室へ戻ると、机の引き出しを開けた。奥には、二組の書類がひっそりと眠っている。 征司と婚姻届を出す前に、森宮家の前会長が澪に二つの協議書を差し出した。 一つは婚前協議書で、もう一つは離婚に関する協議書だ。 森宮家から見れば、澪の出自は到底釣り合いが取れるものではなかった。あの頃の騒動がなければ、森宮家に受け入れられることなどなかっただろう。 前会長は、最初から澪を認めていなかった。 その離婚協議書には、七年という期限が定められていて、七年が過ぎれば、その協議書に従って離婚することになっている。 あのとき征司は、協議書の中身に目を通すことさえせず、あっさりと署名した。 おそらく今もこの離婚協議書の存在を知らないままだろう。 そして今、その期限まであと三か月しかない。 もう一秒たりとも無駄にしたくない。 澪は迷わず協議書をバッグにしまい、疲れ切った体でその日の仕事を終えると、家に帰った。 玄関で靴を履き替えたばかりのところで、二階から降りてくる征司と鉢合わせた。 澪はその場に立ったまま動かなかった。 征司が彼女と話そうとすることも、紗耶の件について説明しようとすることもなかった。 彼が横を通り過ぎようとした瞬間、澪はようやく口を開いた。 「離婚しましょう。 財産分与の手続きに、三か月の猶予をあげる」 そこで初めて、征司の足を止め、カフスボタンを留めていた長い指もわずかに動きを止めた。 彼は黒く細い目で、上から澪を見下ろした。 「今日、紗耶に付き添ったからか?」 その言葉が澪の胸に冷たく刺さった。 つまり征司は、彼女が傷つくことを知っていて、それでも何も説明しなかったのだ。 澪はまっすぐ征司を見つめて、かすかな声で答えた。 「そうよ」 それ以上、理由を並べる気にはなれない。娘のことも、征司には絶対に知られたくない。 征司は感情がないような目をしていた。 澪がなぜ騒いでいるのかどうかも、気にしていないようだ。 「家で何を言おうが好きにすればいい。だが外では、森宮家の妻としての立場を忘れるな」 その言葉が何を意味しているのか、澪にはすぐ分かった。 征司が守ろうとしているのは自分の気持ちではなく、紗耶の体面だけだ。 妻である自分がどう傷ついたかなど、彼にとってはどうでもいい。 征司は妻である自分に何かを説明する必要がないと思っているだろう。 「心配しなくていい」 澪は無意識に手を握りしめ、爪が食い込む痛みでどうにか声を落ち着かせた。 「離婚したら、私にはもう関係ないことだから」 それが意外だったのかもしれない。征司は冷ややかな目で澪を見た。 これまでずっと従順だった妻が、今はどこか触れてはいけないものを抱えているように見えた。 けれど、その目にはわずかな揺らぎもない。 「今は、お前のわがままに付き合っている暇はない。 本気で離婚したいなら、自分で弁護士を探せ」 七年も夫婦として暮らしてきた。 それでも征司にとって自分はいつまでもいてもいなくても同じ存在だ。 だからこそ、彼はためらうことなく離婚を受け入れた。 澪はそれ以上征司と言葉を交わすことなく、彼の横を通り過ぎると、そのまま二階へ向かった。 あとは、この家に残しておくものを整理するだけだ。 征司は目を細め、二階へ上がっていく澪の後ろ姿を見送った。 どうせ、また自分の気を引くための行動だろうと、彼はすぐにそう判断した。 今回の澪の態度はいつもより少し強い。 これまでも澪は、彼の気を引こうとして似たようなことをしてきた。放っておけば、どうせまた戻ってくるだろうと彼は思った。 最後には必ず澪から折れる。自分から何も言わなくても、しばらくすれば何事もなかったように振る舞ってくるだろう。 今回もどうせ同じだと彼は思ったのだ。 征司は淡々と目を戻し、上着を手に取ると、振り返ることなく家を出ていった。 澪は部屋に入ると、七年かけて少しずつ整えてきたその空間を見回した。 どこから手をつければいいのか、すぐには分からなかった。 そのとき、LINEの通知音が響いた。 画面に表示されたアイコンを見た瞬間、澪の目元がふっとやわらいだ。 受話口から、可愛い声がまた流れてきた。 「ママ〜、来月にはK市に行くからね〜。これからはずっと一緒にいられるね!」 澪は、不意に目頭が熱くなるのを感じた。慌てて顔を上げ、こみ上げる涙を押し戻した。 よかった。 自分には、まだ大切な宝物がいる。 征司に娘の存在を知らせなくて、本当によかった。 同じ頃、穂積伊織(ほづみ いおり)から電話がかかってきた。 彼女の声は少し弾んでいて、それでいてどこか心配そうでもある。 「うちの姫様、いよいよ来るの?」 「来月ね」 伊織はふいに舌を鳴らし、とんでもないことを言い出した。 「征司って、子供ができないって話じゃなかった?実は娘がいて、しかも最初から父親として関わらせる気なんてなかったって彼が知ったら、さすがにブチ切れるんじゃない?」 澪はかすかに苦笑して答えた。 「しないよ」 征司は自分にさえ関心がないから、そんなことを気にするはずがない。 それどころか、従弟の婚約者である女をあんな理由で救急に運ばせるような男だから、今さら父親として娘に関わる資格などない。 それに、「子供ができない」という噂についても―― 澪の目が、わずかに揺れた。 結婚して一年目の頃、征司はいつもきちんと避妊していたので、澪は妊娠しなかった。 そして、そんなある日、使用人たちが陰でそんな噂をしているのを偶然耳にした。 征司はもしかすると子供ができない体なのかもしれない、と。 森宮家は以前から、征司にふさわしい相手との縁談を進めようとしていた。 相手はどれも、家柄も立場も申し分ない令嬢ばかりだった。 けれど征司は、その話をことごとく断っていた。それに、子供などいらないと口にしたこともある。 いつしかその話は森宮家の跡継ぎである征司には子供ができないらしい、という噂に変わった。 実際、澪と征司は結婚して七年経っても、周囲には子供がいない夫婦として見られている。 だからその噂は、外から見ればますます本当らしく思えたのだろう。 当時の澪は、その噂を本気で信じていた。 征司と穏やかに暮らしていけるなら、子供がいなくてもいいと思っていた。 征司は、澪といるときならいつも避妊を徹底している。 男性としての彼に問題がない。それについて澪はよく知っている。 たとえ仲が冷え切っていても、その点だけは否定できない。 それなのに、彼はずっと子供の話を避け続けた。 そのうち澪自身も、あの噂は本当なのかもしれないと思うようになっていた。 少なくともあの日までは、そう信じていた。 第3話 澪と征司の結婚生活は、最初からうまくいかなかった。 征司はほとんど家に帰らなかった。夫婦の営みも、月に二度あれば多いほうで、普段の会話などなおさらない。 結婚して一年が過ぎる頃、征司はA国の支社へ赴任することになった。 森宮家の実権を少しずつ握るための重要な基盤となるものだそうだ。 征司がA国へ出発する前の日の夜、接待で酔った彼は、初めてその晩だけ避妊しなかった。 あの夜の征司は、まるで別人のようだった。 彼はひどく酔っていて、相手が誰かも分からなかった。 普段のように自分を律する余裕もない様子で、歯止めが利かないほど激しかった。 征司が出国して二か月ほど経った頃、澪は自分が妊娠していることに気づいた。 医師である澪は、自分の体の変化にすぐ気づいたが、それでも最初は信じられなかった。 今思えば、あの頃の自分はまだあまりにも甘かった。 子供ができない体質だと思い込んでいる彼に、この子の存在を知らせれば、少しは自分と向き合ってくれるかもしれないと思っていたのだ。 だから澪は、まず征司の反応を確かめようと、すぐN市へ飛んだ。 胸いっぱいの喜びと期待を抱えたまま征司の会社へ向かい、凍えるような風の中で二時間待った末、ようやく彼と顔を合わせた。 征司は、突然現れた澪に明らかに驚いた。 けれど、彼女を妻として周囲に紹介することはなく、ただ秘書に指示して、澪を滞在先へ送らせた。 それでもその頃の澪は、まだ征司への思いだけで動いていた。 彼が人前で澪を妻として扱おうとしないことにも、その冷たさにも気づかなかった。 夜になって戻ってきた征司は、シャワーを浴びるなり澪に近づいた。 長旅で疲れていないかなど、気遣う言葉は一つもなく、ただ当然のように身を寄せて、彼女の耳元に唇を落とした。 けれど、その仕草に甘さはなく、義務のように淡々とした触れ方だった。 まるで澪が、彼に抱かれたくてここまで来たとでも思っているかのようだ。 澪は胸の奥に広がる違和感に耐えきれず、征司をそっと押し返した。 澪は動揺を押し殺し、緊張でこわばる声で尋ねた。 「もし、私に子供ができたら、私たち……少しは変われるかな」 その一言で、征司は一気に興を失ったらしい。 彼はあっさり澪から身を離すと、そのまま目を閉じた。 同じベッドにいながら、二人の間には埋めようのない溝があるような気がした。 「子供ができたくらいで、この結婚がうまくいくって、そんな期待はしない方がいい」 征司の声は最後まで淡々としていた。 その落ち着きが、かえって澪には残酷に響いた。 澪は朝まで起きていた。 泣きたいのに、涙は出なかった。 勝手に期待していたのは自分だ。勝手に夢を見て、勝手に失望しただけだ。 そう考えるほど、澪は余計に惨めになった。 翌日、征司は追い払うように彼女の航空券を手配した。まるで、一分一秒でも早く澪を遠ざけるかのように。 悲しみや失望がないではなかった。 それでも、七年で終わるはずの結婚だった。最初からそう決められていた以上、澪はもう迷わない。 征司が本当に子供に関心がないのか、それとも自分には子供ができないと思い込んでいるのか、そんなことは、もうどうでもいい。 今この瞬間も自分の中で育っているこの子を守れるのは、自分しかいない。 だから、征司にはもう何も知らせるつもりはなかった。 彼の態度に振り回されて、自分の体や子供を傷つけるつもりもなかった。 今思えば、征司に何も知らせず、ひとりでこの子を産むと決めたことは、澪のこれまでの人生で、いちばん大胆で、いちばん正しい決断だった。 玲衣が穂積の姓を名乗っているのは、伊織の戸籍に入っているわけではない。 いずれ穂積家を継ぐことになる伊織の従兄が、玲衣を自分の戸籍に入れてくれたからだ。 彼がいなければ、ここまで玲衣を静かに守ってくることはできなかった。 澪は小さく首を振って考えを切り上げ、玲衣とのLINE画面に目を落とした。 森宮家は誰一人として、玲衣の存在を知らない。 この結婚で澪に残ったものがあるとすれば、それは娘だけだ。 征司が夫として最低だったことは、もう分かりきっている。 澪にとって彼は、玲衣を授かるために必要だっただけの相手だ。 そんな相手に、これ以上何を求めるというのだろう。 ―― 伊織に離婚のことを打ち明けると、彼女は数秒言葉を失った。 澪がどれほど征司を愛しているかを、伊織は誰よりもよく知っている。 澪が十代の頃から、十年以上も征司だけを想い続けてきた。その想いを断ち切るのは、身を裂かれるようにつらいはずだ。 それなのに今の澪の声はあまりにも落ち着いていた。 何度も傷つけられるうちに、澪は痛みにさえ鈍くなったと彼女は思った。 伊織にしてみれば、澪が玲衣のことを征司に黙っているのは当然だ。 あれだけ澪を傷つけてきて、今さら父親などできるはずがない。知らされないのは、彼の自業自得だ。 それでも、澪がどれほど苦しんでいるか、伊織も分かっていた。 だから彼女はすぐに同調した。 「男なんて、都合のいいときだけ偉そうにして、肝心なときには何の役にも立たないんだから。クズはクズよ。そんなクズ、さっさと捨てて正解なの」 通話を終えると、澪はすぐに手を動かし、身の回りのものをまとめ始めた。 七年も森宮家の奥様として暮らしてきた。 それなのに、この家から持って出るものはスーツケース二つ分しかない。 ふと、薬指のダイヤの指輪が目に入って、澪はそれを軽くなぞった。 長く身につけていたせいで、指輪はもう肌になじむほど滑らかになった。 それなのに、触れた瞬間、まるで刃物で切られたような痛みが走った。 澪は深く息を吸った。 そして迷いもなく指輪を外し、離婚協議書を入れた封筒に入れた。 荷物を車に積み終えた頃には、すっかり夜も更けていた。 澪は部屋に戻ると、着替えもせずにそのまま眠った。 翌日。 澪は階下の物音で目を覚ました。 階下からは、家具を動かす音や人の話し声が絶えず聞こえてくる。 三時間しか眠っていない澪には、その音が頭の中をがりがり削るようで、吐き気がするほどつらい。 澪は頭を押さえながら身支度を済ませると、離婚協議書を入れた封筒をすっかり片付いたドレッサーの真ん中に置いた。 それは征司が部屋へ入ったら、必ず目に入る場所だ。 彼がきっと待ち望んでいるはずの、最後の贈り物だ。 それを確認して、澪は部屋を出た。 住む場所は、昨日のうちに伊織が手配してくれた。 玲衣と一緒に暮らすことまで考えて、三LDKの部屋を選んでくれたらしい。 階段の上まで来たところ、リビングで作業員たちに指示を出している少年の姿が目に入った。 十二、三歳ほどの少年だ。澪に気づくと、変声期でかすれた声で、偉そうに言い放った。 「さっさと荷物まとめて出てけよ。ここはこれから、本当の義姉さんが住む部屋なんだから。彼女の場所を汚すなよ」 その無礼で、横柄な少年は征司の弟、森宮悠真(もりみや ゆうま)だ。 甘やかされて育ったせいで、わがまま放題に振る舞っていて、征司とは少しも似ていない。 悠真はこれまで、一度も澪を義姉と呼んだことがない。 それなのに今は、別の女を守るような口ぶりをしている。 澪は階段の上から彼を見下ろし、冷たい声で尋ねた。 「誰のこと?」 「紗耶さんに決まってるだろ。紗耶さんこそ、兄さんにふさわしい女なんだよ。お前は何年も兄さんとこの家に居座って、家政婦みたいなこと以外に何ができたんだよ」 悠真は腰に手を当てて、まだ幼さの残る顔いっぱいに隠しもしない軽蔑を浮かべている。 澪はリビングへ運び込まれている物に目を向けた。 新しいドレッサー。 新しいソファ。 新しい姿見。 どれも、紗耶の雰囲気に合いそうなものばかりだ。 「誰が許したの」 澪の声はほとんど凍っている。 その冷たさに、悠真は一瞬ひるんだが、すぐに恥ずかしさをごまかすように怒鳴った。 「兄さんに決まってるだろ!そんなことも分かんないのかよ! 兄さんはもうお前なんか要らないんだよ。気持ち悪いって思ってる。使い古された雑巾みたいな女のくせに。頼むから、さっさと消えろよ!」 澪は唇を引き結んで、胸の奥を鈍器で強く殴られたようだった。 頭の中が、数秒だけ真っ白になった。 征司はもう、紗耶のためにこの部屋を空けるつもりなのか。 昨日、妊娠している紗耶とのあの出来事を知ったばかりなのに、今日はもう隠す気もなく、彼女の家具をこの家へ運び込ませている。 澪と夫婦として暮らしてきたこの家を、征司は別の女のために、こうも簡単に明け渡そうとしていた。 第4話 征司は紗耶のものをこの家へ運び込むことを許した。 それは、森宮家の妻である澪がどれほど惨めに敗れたのかを、家中の者に見せつけるのと同じだ。 離婚するつもりでいるとはいえ、澪はまだ征司の妻だった。 征司がどれほど急いで紗耶を表に出したがっていようと、離婚も成立していないうちから、自分がここまで踏みにじられる筋合いはない。 澪は作業員たちを静かに見渡し、運び込まれた家具を一つずつ指さして言った。 「どれも高いものですよね。全部譲りますよ。中古で売っても、いい値段になると思いますから。お手数ですが、外へ運び出してください」 作業員たちは、ただ雇われて来ただけの人間だ。そんなうまい話を聞かされて、断る理由などない。 彼らは顔を見合わせると、すぐに笑顔でうなずいた。 悠真は止める暇もなく、顔を真っ赤にして澪を指さした。 「お前、何様だよ!これは母さんが紗耶さんに贈ったものなんだぞ!勝手に決めていいと思ってんのか?兄さんが絶対にお前を追い出すからな!」 その一言で、澪はようやく分かった。 紗耶の家具をこの家に運び込ませたのは征司だけではなく、彼の母・森宮香澄(もりみや かすみ)も最初から承知しているのだ。 澪は悠真を見下ろし、はっきりと言った。 「そう。じゃあ明日、あなたの学校に行って、みんなに話してあげるわ。 悠真は、お兄さんと従兄の婚約者の女をくっつけるって。森宮家って、そういうことを平気で許す家なんだって。 そんなに紗耶さんの味方をしたいなら、学校中に広めてあげる。……悠真は有名人になりたい?」 澪の言葉は、十二、三歳の子どもに向けるには、あまりにも容赦がなかった。 彼女はこれまで、悠真にこんな言い方をしたことが一度もなかった。 いつもなだめ、機嫌を取り、子どもだからと許してきた。 だからこそ悠真は、信じられないものを見るように目を見開いた。 やがて顔をさらに赤くし、声を震わせて怒鳴った。 「やっぱりお前、最低だ!そんなこと、できるわけないだろ!」 澪は肩をすくめた。 ほら、ちゃんと分かっているじゃない。 子どもだから何も知らないわけではない。 子どもの言うことだから許される、などということもない。 刃が自分に向けられた途端、人はちゃんと痛みを覚える。 子どもだから大目に見ろ、なんて誰が決めたのだろう。 騒ぎを聞きつけたのか、香澄が険しい顔で入ってきた。 「朝から何を騒いでいるの」 そう言ってから、香澄は澪に目を向け、眉をひそめた。 「もうすぐ十時よ。今日はずいぶん遅いじゃない。ご飯はまだなの?私の分も、紗耶の分も、どうするつもり?」 その言葉を聞き、澪は喉の奥が詰まるように痛くなった。 医師である澪は、毎月森宮家の人たちの体調や好みに合わせて料理を用意してきた。 家族それぞれの体質や好みに合わせるため、澪は毎朝五時前から台所に立つ。 出勤前にすべて整えて、本邸にいる年長者たちや親族の分まで届ける。 もちろん、紗耶の分も含まれている。 香澄が以前から紗耶を特別扱いしていたことを、澪も覚えている。 ただその頃は、紗耶は人当たりもよく、目上の人に好かれるタイプなのだと思っていた。 今思えば、兆候はとっくにあったのだ。 今、はっきりとわかった。 香澄は最初から、紗耶と征司とのことに気づいている。 だからこそ紗耶にだけ妙に優しく、彼女の婚約者が服役してからは、なおさら二人を近づけようとしているのだ。 澪だけが何も知らなかった。 何も知らないまま、夫が大切にしている女のために一年も料理を作り続けていたのだ。 思い返すほど、自分が滑稽でたまらなかった。 彼らは最初から、澪を一人の人間として尊重してなどいなかった。 だから彼女はもうこれ以上譲るつもりはなく、静かな声で言った。 「私がいないと生きていけないなら、勝手に死ねばいい」 香澄の顔色が一瞬で変わり、信じられないものを見るように、去っていく澪の背中をにらみつけた。 そばにいる使用人たちまで思わず息をのんだ。 奥様は、紗耶さんへの嫉妬でおかしくなったのだろうか。大奥様に向かって、あんな不敬なことを言うなんて、と使用人たちは思った。 香澄もすぐに我に返り、唇をひどく歪めた。 「育ちの悪さがはっきりわかる態度ね。そんな態度で征司の心を掴めると思ってるなら、ずいぶん甘いわ」 ―― 澪は荷物を新しい部屋へ運び込むと、その足で四年勤めた病院へ向かい、辞表を出した。 この病院を選んだのは、医師としてどうしてもここで働きたいからではなく、ただ征司の会社である森創に近いからだ。 征司を手放すと決めた以上、ここに残る理由もなかった。 澪にはほかに選べる道がないわけではない。 医師として、もっとふさわしい場所はいくらでもある。 辞表を出したあと、澪はそのまま伊織と約束している店へ向かった。 店は伊織が選んだ場所で、病院からもそう遠くない。 澪が店に入ると、先に来ていた伊織が席から手を振った。 澪が向かいに腰を下ろすと、伊織はすぐ湯飲みにお茶を注ぎ、彼女の前へ差し出した。 「退職の手続き、終わった?」 澪はうなずいた。 「だいたいは」 「それで、離婚を切り出したとき、征司はどんな反応だったの?」 そこは伊織も気になっている。 ああいう男なら、澪のほうから離婚を切り出されたこと自体、男としてのプライドを傷つけられたと思うに違いない。 澪は湯気の立つ湯飲みを見つめ、首を横に振った。 「何も」 澪がついに離婚を口にしても、征司はまともに向き合おうとしなかった。 男というものは、つくづく身勝手だ。 自分は平気で相手を傷つけるくせに、相手から先に背を向けられることには耐えられない。 伊織は悔しそうに歯を食いしばった。 「あいつ、人の心あるの?七年だよ?普通なら少しくらい動揺するでしょ」 澪は、泣けばいいのか笑えばいいのか分からなかった。 七年もかけて愛してきた相手に、ここまで軽く扱われていた。 その事実だけが、どうしようもなく惨めである。 七年分の苦しさは、澪自身にしか分からない。 涙なら、もうとっくに枯れた。 澪はもう、征司からほんのわずかな愛情を恵んでもらうことにすがる女ではない。 伊織はさらにどうしてそこまで離婚を決意したのかと尋ねた。 澪は隠さなく、昨夜、救急で起きたことをそのまま話した。 伊織は顔色を一気に変え、次の瞬間、テーブルを叩いて立ち上がった。 「あのクズ、少しは人目を気にしようと思わないわけ!?紗耶って女、恥ってものがないの?婚約者があんなことになって、まだ間もないのに、その兄とあんな真似をして……しかも妊娠までしてるんでしょ?」 こんな話、生まれて初めて聞いたよ。 澪は、伊織がまっすぐな性格だとよく知っている。感情が高ぶると、声も自然と大きくなる。 澪は慌てて彼女の腕を掴んだ。 昨夜、実際に何があったのか、澪にも詳しいことは分からない。 ただ救急で聞いた話を、伊織にかいつまんで伝えただけだ。 紗耶の状態についても、澪はきちんと診察する前に拒まれてしまった。 紗耶は澪を信用しておらず、ひどく警戒していた。 しかし、もう遅い。 背後から、誰かが鼻で笑うような声がした。 振り返ると、衝立の向こうに一人の男が立っていた。 澪はその男を知っている。 征司の数少ない友人の一人、藤堂彰人(とうどう あきと)だ。 彰人は澪を見るなり、露骨に顔をしかめた。その目には、隠す気もない軽蔑がにじんでいる。 どうやら今の伊織の言葉をはっきり聞いていたらしい。 その話を、澪がわざと人前で広めているのだと思うのだろう。 「澪、そこまで落ちたとは思わなかった」 そう冷たく吐き捨てると、彼はそのまま大股で二階へ上がっていって、澪に反論する暇さえ与えなかった。 まるで、悪いことをしたのは澪のほうだと言わんばかりの態度だ。 澪は思わず眉をひそめた。 伊織はすぐに怒り出した。 「何なの、あいつ!あんなことしておいて、言われるのが嫌なら最初からするなって話よ!もう、いっそ森創の前で全部ばらしてやる!株価を暴落させてやってもいいんだから!」 澪は、それが現実には不可能だと分かっている。 そんなことをすれば、自分もここで生きていけなくなる。 自分がまだ森宮家と正面からやり合える立場ではないことも分かっている。 何より、守らなければならない玲衣がいる。だからこそ、感情に任せて動くわけにはいかない。 彰人のことも、気に留めるつもりはない。 ―― 二階。 彰人は険しい表情のまま二階の個室に入った。 落ち着いた雰囲気の部屋には、すでに数人が席についていて、中心に座っているのはもちろん征司だ。 彼は姿勢よく座っているだけで、周囲を自然に黙らせるような空気をまとっている。 彰人が入ってきても、征司は軽く目を向けただけで、特に何も言わなかった。 その隣には、当然のように紗耶が寄り添っている。 彼女は彰人の表情を見て、やわらかく笑った。 「どうしたの?誰かに嫌なことでも言われた?」 第5話 そばにいる征司の友人、佐伯蓮(さえき れん)も笑いながら口を挟んだ。 「ほんとだ。何、その顔。ずいぶん機嫌悪そうじゃん」 彰人は席に着くと、向かいに座る紗耶をちらりと見た。 紗耶はいつも通り落ち着いていて、彼らとの距離の取り方も心得ている。振る舞いにも隙がなく、人としても申し分ない。 それなのに、澪は陰であんなふうに彼女を悪く言っているのだ。 「さっき下で誰を見たと思う?澪だ」 それを聞いても、征司の表情は少しも変わらなかった。 冷ややかに整った顔に感情はなく、テーブルに置いた指先で、気のないように軽く卓を叩いている。 妻である澪のことなど、まるで興味がないようだ。 紗耶は彰人にお茶を注ぎ、静かに差し出した。 「何かあったの?彼女のことで腹を立てても仕方ないわ。気にしないで」 紗耶がこんなふうに澪をかばうような言い方をしたことで、彰人はますます二人の差を感じた。 彼は椅子の背にもたれ、肩をすくめて冷たく笑った。 「あいつが紗耶のことを何て言ったと思う?聞くに堪えないよ。女の嫉妬って、ここまで醜くなるのかと思った」 彰人はさっき聞いた話をそのまま口にした。 それまで澪の話題に興味を示していなかった征司の目が冷たく変わり、眉間にしわが寄った。 「それ、澪が言ったのか」 征司は彰人を見た。 その声からは怒っているのかどうかさえ分からない。 紗耶の表情もそこで少し曇った。 「彰人さんが聞いたのなら、間違いないでしょう」 彼女は唇を軽く引き結び、彰人の代わりにそう答えた。 蓮がすぐに声を荒げた。 「それって、紗耶に下劣な噂を立ててるってことだろ?澪も女のくせに最低だな。七年も一方的に尽くして愛されなかった腹いせに、紗耶を引きずり下ろそうとしてるのか?女の嫉妬って、本当に見苦しいな」 少し考えたあと、蓮はすぐに言った。 「何の落ち度もないのにそんなことを言われたなら、きっちり謝らせないとな」 蓮がそう言うと、紗耶は一度深く息を吸い、問いかけるように黙って征司を見た。 征司は何も言わず、ただスマホを手に取り、電話に出るために席を立った。 関わるつもりはないが、止めるつもりもない。 蓮と彰人は顔を見合わせた。 それだけで、征司の態度は十分伝わった。 征司が澪に少しも関心を向けていないことに、紗耶は目を伏せ、満足そうに唇の端をわずかに上げた。 ―― 料理が運ばれてきたばかりだった。 澪がまだほとんど箸をつけていないうちに、店員が慌ただしく駆け寄ってきた。 「お客様の中に、お医者様はいらっしゃいませんか?二階のお客様は具合が急に悪くなってしまって……!」 澪は眉をひそめ、医師としての本能が先に動いた。 「案内してください」 伊織はついてこなかった。 ちょうど仕事のメールに返信しているところだったからだ。 澪は店員に連れられ、個室の前まで来た。患者のことが気がかりで、彼女は迷わず扉を開けた。 その瞬間、扉の内側にいる人の手元が大きく揺れて、抱えている熱い鍋が、澪のほうへ倒れかかってきた。 澪はとっさに後ろへ下がった。 その瞬間、背中が硬い胸板にぶつかり、腰に腕を回された、そのまま後ろへ引き寄せられた。 鼻先をかすめたのは、針葉樹のような淡い香り。 それは、澪があまりにもよく知っている匂いだ。 征司だ。 征司はとっさに手を伸ばし、澪に倒れかかってきた鍋を受け止めた。 店員の顔が一気に青ざめ、慌てて鍋を受け取って、何度も頭を下げた。 澪は、こんなところで征司に会うとは思わなかった。 礼を言おうとした瞬間、征司の後ろに紗耶が立っているのが見えた。 紗耶は征司の背後に守られるように立っていて、澪へ向ける目に、隠しきれない不快感をにじませている。 澪は触れてはいけないものに触れてしまったかのようにすぐに身を引き、征司の腕の中から完全に離れた。 澪がすぐに身を引いたことで、征司の目がわずかに細くなった。 その光景を見て、蓮は笑い声をあげた。 「へえ、怪我するのは怖いんだ?あれだけ図々しいんだから、痛みなんて平気かと思ってたよ」 そして、わざとらしく忠告するように言った。 「まあ、征司がすぐ止めてくれて助かったよな。紗耶に当たったら危なかったし。勘違いするなよ、お前を助けたわけじゃないから。そういうふうに受け取られると、こっちも困るんだけど」 征司の表情は淡々としていて、蓮の言葉を否定することはなかった。 澪にも、征司が手を出した理由は分かっている。 あの鍋が落ちていたら、紗耶にも当たったかもしれない。 征司は自分を助けたのではなく、紗耶を守るついでに、たまたま手を貸しただけだ。 もう征司の行動を自分に都合よく受け取ることはない。 彼が守ろうとしたのは紗耶であって、自分ではない。 それくらいのことは、痛いほど分かっている。 彰人は何も言わなかったが、その目にはやはり軽蔑の色が浮かんでいる。 何が起きているのか、澪にはまだ分からない。ただ、彼らの視線や言葉の端々に悪意がにじんでいることだけは分かる。 これ以上ここにいても無駄だと思い、澪は何も言わずにその場を離れようとした。 そのとき、突然手首をつかまれた。 長い指が手首に触れて、鋭くこすれるような感覚が走った。 心臓が、強く跳ねた。 振り返ると、征司の冷えた視線が澪を捉えていた。 彼は澪を見据え、薄く冷たい声で言った。 「紗耶に謝れ」 その一言は、思っていた以上に澪の胸に刺さった。 一瞬、息の仕方さえ分からなくなる。 それでも澪は、冷えた目で征司を見返した。 「理由は?」 「分かってるはずだ」 征司は、紗耶の名前を悪い話の中に出すことさえ嫌がっているようだ。 そう言い終えると、彼はすぐに澪の手を離した。まるで、触れていること自体をなかったことにしたいかのように。 征司がすぐに手を離した理由は、澪にも分かる。 紗耶に自分と触れているところを見せたくないのだろう。 同時に、この場の空気も彼女は読めてきた。 彰人が、伊織の言葉を都合よく膨らませて伝えたのだろう。 目の前の彼らは、その話を口実に自分を呼び出し、追い詰めて謝らせるつもりだ。 「澪、悪いことをしたら、ちゃんと認めろよ」と蓮が言った。 彰人もテーブルを指で軽く叩きながら、何でもないことのように続ける。 「素直に認めたほうがましだと思うけどな」 「そうだよ。紗耶は妊娠なんてしてない。そんな下品な濡れ衣を着せるなよ」 澪がどうしてあんな噂を平気で作り上げられるのか、蓮にはさっぱり理解できない。 彼らの目に映る澪は、幼い頃に森宮家へ引き取られ、その庇護を受けて育った女である。 本来なら、征司にとって澪は妹のような存在のはずだった。 それなのに澪は、二十歳になったばかりで征司と一線を越えた。 そのうえ、征司を逃げられない立場に追い込み、無理やり征司の妻になった女だ。 征司の人生を狂わせた女だと思っているから、彼らは澪に好意的でいられるはずもない。 紗耶は澪を見て、澪を責めるつもりなどないと言わんばかりにゆっくりと口を開いた。 「澪さん、何か不満があるなら直接言って、そんな卑怯なやり方はやめてくれる?同じ女同士だから、あなたを追い詰めるつもりはないわ。でも、みんなの前で一言謝ってもらうくらいは、当然だと思うの」 紗耶が妊娠していないことは、澪にとって少し意外だった。 澪はわずかに眉を寄せたが、すぐに考えるのをやめた。 実際に何があったのかなど、もうどうでもよかった。 そもそも征司には、子どもができないという噂がある。そう思えば、紗耶が妊娠していないとしても、特に不思議ではない。 妊娠しているかどうかで、紗耶と征司の関係がきれいになるわけではない。 どちらにしても、自分にとってはもう十分だ。 澪は紗耶を見て、その恥知らずぶりに呆れつつ、静かに言った。 「いいわ」 紗耶は、澪がそこまで素直に応じるとは思っていなかった。 征司も視線を落として澪を見た。まるで、彼女がそうするのは当然だと言いたげだ。 だが次の瞬間、澪は続けた。 「SNSに謝罪文でも載せてあげましょうか。 ――紗耶さんと私の夫の不倫関係の邪魔をしてしまい、申し訳ありませんでした。私には、既婚者のそばに平然といられる紗耶さんの図太さも、妻と愛人を両方抱えられる森宮社長の度胸もありません」 第6話 征司の表情にはっきりとした変化はない。ただ、澪を見る目だけが少し冷たくなった。 彰人も蓮も、一瞬言葉を失った。 今の澪の言い方は、さすがにきつすぎるのではないか。征司の気を引くために、今度は強く出ることにしたのか。 しかも、公開で謝るって。 それでは謝罪どころか、わざと紗耶を貶めるつもりとしか思えない。 紗耶は顔をこわばらせ、まるで自分こそが傷つけられた被害者であるかのように唇を歪めた。 「澪さん、もう気は済んだ?」 紗耶のその言い方に、澪はむしろ感心した。 よくもそんな顔で、自分が被害者だと言わんばかりに振る舞えるものだ。 一度そう思い込んだ相手に対して、澪はもう説明も弁解もする気になれなかった。 自分が悪くないことを証明するために、これ以上言葉を尽くす気にはなれない。 この結婚は、もう終わる。 今さら彼らに分かってもらおうとしても、余計に傷つくだけだ。 澪はそれ以上何も言わず、その場を離れようとした。 征司のそばを通り過ぎようとしたとき、冷めた視線が彼女を捉えた。 征司は逃がす気がないように澪を見据え、唇を歪めた。 「今度はそういう手か」 澪は一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「何のこと?」 征司は目を伏せるようにして、薄く笑った。 「さっきまであれだけ強く出たのに、今度はどうして言い返さないんだ?」 澪はようやく、征司の言いたいことを理解した。 悔しさと怒りが、一気に込み上げてきて、目の奥が熱くなった。 自分がどんな感情を見せても、征司にはすべて計算に見えるのだろう。 取り乱しても、崩れ落ちそうになっても、絶望して身を引こうとしても、彼の目には全部、気を引くための手段にしか映らない。 怒りで胸が張り裂けそうても、結局は「演技」と呼ばれるだけだ。 この場には、紗耶をかばう人間ばかりで、自分の言葉に耳を傾ける者などいない。 ここで言い争ったところで、自分がさらに傷つくだけだ。 それに、征司はきっと、自分がまた駄々をこねているだけだと思っている。 何を言っても、どう振る舞っても、彼が自分の言葉をまともに受け止めることはない。 ならば、これ以上言葉を尽くす意味などない。 澪は少しずつ落ち着きを取り戻した。争う気力も失せ、彼に合わせるように小さくうなずいた。 「分かった。じゃあ、どうぞお幸せに。これでいいの?」 澪はもう征司を見ようともせず、そのまま背を向けて歩き出した。 三か月。 あと三か月だけ耐えれば、この息苦しい結婚は完全に終わる。 征司はほんの数秒だけ澪の後ろ姿を見送ったが、すぐに興味を失ったように視線を外した。 征司は、澪の怒りを受け止めるつもりなどない。 何も言わず、何も応えず、しばらく相手にしない。そうすれば、いつものように澪のほうが折れると、彼は考えた。 七年の間、二人はずっとそうやってきたのだ。 それが、二人の暗黙のやり方だ。 ―― 澪は、さっきの出来事を伊織には話さなかった。 話せば伊織が黙っていないだろう。下手をすれば、本当に森宮家の人間に食ってかかるかもしれない。 澪は結局、ほとんど食事に手をつけられないまま伊織と別れ、その足でマンションへ戻って荷物の整理を続けた。 ひと通り片づけ終える頃には、もう九時近くになっていた。 そこで、恩師から預かった本を持ってきていないことに気づいた。 澪は髪をかき上げて、小さく息を吐いた。 たしか、あの本は征司と暮らしていた家の寝室の金庫にしまったままだ。 澪はすぐに上着を羽織り、車であの家へ向かった。 征司はもともと、めったに家へ帰らない。だから会うことはないはずだ。 澪は二階へ上がり、いつものように寝室の扉を開けた。 すると、そこにいるはずのない征司が見えた。 大きな窓の前に立っている征司の手にあるスマホには、ビデオ通話の画面が映っている。 その相手は、紗耶だった。 夜になってもこうして顔を見ながら話しているらしい。まるで、付き合い始めたばかりの恋人同士のようだ。 征司は眉をひそめて澪を見た。 突然入ってきた彼女に向ける声は、冷たかった。 「ちゃんとノックしろよ」 澪は一瞬、言葉を失った。 妻として七年暮らしてきた寝室に入っただけなのに、今の征司にとっては、それさえ紗耶との時間を邪魔する行為らしい。 「出ていけ」 征司が冷たく言い放った。 まるで澪がわざと二人の会話を盗み聞きしに来たかのような言い方だ。 澪は胸の奥が冷たくなるのを感じた。 それ以上何も言わず、部屋の外へ退いて扉を閉めた。 夫が不倫相手とどれほど親しげに話しているのか、わざわざ聞いて自分を傷つける必要はない。 階下へ下りると、物音を聞きつけた家政婦の房江(ふさえ)が出てきた。澪の姿を見るなり、すぐに声をかけた。 「澪様、先ほど大奥様からお電話がありました」 澪は少し迷ってから、受話器を取った。 房江は、澪が夫に大切にされていないことを知っていて、それでも本邸の大奥様が澪をかわいがっていることも分かっている。 だから余計なことは聞かず、そのまま二階へ行った。 「澪?」 受話器の向こうから、穏やかな森宮美佐子(もりみや みさこ)の声が聞こえた。 澪は壁の時計に目をやった。 早く本を取って帰りたいが、美佐子からの電話を無視するわけにもいかない。 「おばあ様、まだお休みではなかったんですね」 美佐子は甘えるような口調で言った。 「私だってまだまだ元気よ。あなたがいつも持ってきてくれるお薬のおかげで、少しくらい夜更かししても平気」 澪が黙っていると、美佐子は穏やかな声のまま本題に入った。 「澪は医学に詳しいでしょう。自分の体のことも、もう少し大事にしなさい。今からきちんと体を整えておけば、赤ちゃんのことも考えやすくなるでしょう。 知っているでしょう、森宮家は男ばかり。かわいいひ孫娘がいたら、どんなにうれしいかしら。子どもがいれば夫婦仲も深まるものよ。征司も、本当は子どもが好きなの」 子どもの話は、この数年ずっと途切れたことがない。 玲衣の存在について、澪はこれまで一言も漏らしていない。 離婚を決めた今、なおさら話せるはずがない。 それに、たとえ離婚しなかったとしても、澪だけが体を整えてもどうにもならないだろう。 征司は夫婦の営みに関心の薄い男で、自分ひとりがどう努力したところで、どうにもならない。 それに、征司は昔、自分に子どもはできないと言っていたから、美佐子はその噂を知らないはずもない。 それでも、澪には体を整えろと言っている。 澪は、胸の奥が冷えていくのを感じた。 子どもができないことも、夫婦がうまくいかないことも、いつの間にか女の責任にされる。 努力して、我慢して、それでも足りなければ、さらに自分を責められる。 あまりにも理不尽だ。 澪はこの話題から逃げたくなった。 彼女は指先をぎゅっと握って、隠さずに告げた。 「おばあ様。私、征司と離婚するつもりです」 電話の向こうが急に静まり返った。 きっとひどく驚いているだろう。 しばらくして、美佐子はようやく冷たい声で言った。 「あなたがつらい思いをしてきたことは、分かっているつもりよ。征司は、昔から人の愛し方を知らない子なの。でも、少なくとも夫婦としての礼儀を守ってきたでしょう。澪、もう一度だけ考え直せないかしら」 「考え直すつもりはありません。もう決めました」 美佐子はしばらく黙り込んだ。 やがて深いため息をつくと、静かに言った。 「澪、森宮家はあなたにずいぶんつらい思いをさせてしまったわね。安心しなさい。離婚することになっても、あなたをそのまま放り出したりはしない。あなたに合うよい相手を、私が責任を持って探すわ」 澪は言葉に詰まった。 美佐子がそう言うとは思っていなかった。 まだ離婚もしていないのに、もう次の相手を探して補償しようとしているのか。 いくら何でも、気が早すぎる。 けれど、美佐子の言葉を聞いて、澪の胸は少し冷えた。 澪と征司の結婚がどれほど形だけのものなのか、皆分かっている。 皆、澪がどれほどつらい思いをしてきたか分かっている。 それでも、澪なら最後には折れると思っている。 だから、澪がどれほど傷ついても、見ないふりをしてきたのだろう。 けれど、もう違う。 もう終わりにする。 通話を切ると、澪は時間を確認した。 あれから十分ほど時間が経った。まだ夫である征司は、恋人との甘い時間を十分楽しんだだろうか。 澪はただ本を取って、早くここを出たいだけなのだ。 これ以上待っていられないと思い、二階へ上がろうとしたそのとき、玄関の扉が乱暴に開いた。 征司の叔母にあたる森宮千佳子(もりみや ちかこ)が大股で入ってきて、ひどく険しい顔で澪の前まで来ると、いきなり手を振り上げた。 千佳子の手が振り下ろされる直前、澪は反射的に半歩身を引いた。 そのおかげで直撃は避けられたものの、指先が頬をかすめた。 「パンッ」と乾いた音が響いて、澪の頬はじんと痺れた。 千佳子は澪を指さし、怒鳴りつけた。 「澪、嫉妬で頭がおかしくなったの?自分がうまくいかないからって、周りまで巻き込んで、恨みがましく騒ぎ立てて。そんなことをして何になるの」 不意に打たれた澪は、状況を飲み込めず、千佳子と言い争う余裕もなかった。 そのとき、階段のほうから足音がした。 振り返ると、征司がそこに立っていた。 いつの間に下りてきたのか、手にしたスマホの画面はまだ明るいままだ。 澪は、征司のスマホ画面に映る紗耶と目が合った。 頬を打たれたばかりの澪を見て、紗耶はほんの一瞬、笑った。 第7話 その笑い声は、澪の胸を鋭く刺した。 紗耶は、千佳子に頬を打たれた自分の惨めな姿を見ていた。 そして、征司が自分をかばおうとしなかったことまで、画面越しにはっきり見ていたはずだ。 澪は自嘲気味に笑った。 もう、征司に期待などしていない。 それでも、自身の家庭を壊した不倫女にこんな惨めな姿を見られたことはどうしようもない屈辱だ。 征司は冷ややかな目で千佳子を一瞥すると、紗耶に「あとでかける」と告げて通話を切った。それから、澪の赤くなった頬に一瞬だけ目をやった。 しかし何かを言うことはなく、すぐに千佳子へ視線を移した。 「叔母さん、どういうつもりですか」 征司の声は低く、冷たかった。 しかし、その冷たさは澪を思ってのものではない。 澪も期待していなかった。 彼が気にかけてくれないことなど、この七年で嫌というほど分かっている。 だから今さら、彼に優しさを求めることもない。 征司の視線を受け、千佳子は思わず肩を震わせた。 澪はまだ、形式上は征司の妻だ。 たとえ征司が彼女を大切にしていなくても、その妻に手を上げたとなれば話は別だ。 そう考えた千佳子は、すぐに澪を指さした。 「悪いのはこの人でしょう?征司さんが紗耶さんを病院へ連れていったことが、ネットに流れているのですよ。 その病院は澪が勤めている病院じゃありませんか。誰がやったかなんて、考えるまでもないでしょう! その投稿には揉め事を煽るような生々しいことが、あれこれ書いてあったんですよ。紗耶さんがあなたの子を身ごもっているだとか、あなたたちが……」 その先は、さすがに千佳子も口にできなかった。ただ怒りを抑えきれないまま澪を睨みつけた。 紗耶はまだ千佳子の息子の婚約者という立場にある。婚約を正式に解消するかどうかも、まだ話し合いは済んでいない。 しかし、そんな噂が広まれば、千佳子の面目は丸つぶれになる。 この先、どれほど陰口を叩かれることか。そう思えば思うほど、千佳子は澪への憎しみを募らせていった。 七年も征司の妻でいながら、夫の心ひとつつなぎ止められないうえに、ほかの女へ向いた夫を引き戻すこともできず、挙げ句の果てには、息子の縁談まで壊そうとしている。 澪は内心、少し意外に思った。 たしかに、公の場で紗耶に謝罪するとは言ったが、本当にそんなことをした覚えはない。 とはいえ、このタイミングであんな暴露が出たとなれば、周囲の目には、まるで自分が仕組んだかのように映るだろう。 澪はスマホを取り出し、思い当たる言葉をいくつか打ち込んで検索した。 すると、千佳子の言うとおり、それらしき投稿がすぐに見つかった。 文面を見る限り、投稿者はかなり慎重に言葉を選んでいるようで、征司と従弟の婚約者である紗耶との関係をただの不倫騒動ではなく、禁断の恋であるかのように仕立てていた。 澪は思わず征司に目を向け、そこで初めて気づいた。 征司はじっと澪を見つめている。 やがて、彼はまるで他人事のような口ぶりで言った。 「お前、そこまで紗耶のことが気になるのか?」 征司はそれ以上は口にしなかった。 だが、澪からすれば、その短い言葉だけで十分だ。 征司は澪が嫉妬に駆られて紗耶を陥れようとしているのだと、そう思い込んでいるのだろう。 身に覚えのない濡れ衣を着せられた澪は、すっと表情を消した。 「私があなたたちのことをばらすつもりなら、あんな上品な書き方なんてしないわ」 わざわざ言葉を飾って、二人のことを美しく見せるはずがない。 千佳子は鼻で笑うように言った。 「ただあからさまに罵る度胸がなかっただけでしょう?征司さんに追い出されたくはないものね」 森宮家の人はみんな、澪は征司から離れられない女だと思っている。 澪はその見方にうんざりした。それでも胸の奥が冷えるように感じた。 千佳子の言葉をまったくの的外れだとは言い切れなかったからだ。 かつて自分は確かに征司のことしか見えていなかった。 彼に愛されたい一心で、女としての意地も、妻としての誇りも、いつの間にか手放した。 征司は澪をちらりと見ただけで、彼女の言い分を聞く気などなさそうだ。 赤く腫れた頬に一瞬目を留めると、物音を聞きつけて姿を見せた家政婦の房江へすぐに視線を移した。 「奥様に氷を」 房江は、はっと我に返ったように慌てて動き出した。 征司のひと言で、澪の胸の内に渦巻いていた言葉はそこでふっと途切れた。 しかし、その「気遣い」に、澪の心が動くことはもうない。 助けられたとも、守られたとも、思えない。 それはきっと、征司がこれまで身につけてきた礼儀のようなもので、澪を思ってのことではない。 自分に都合よく受け止めれば、また同じことを繰り返すだけだ。 征司はもう一度千佳子に目を向けた。 その口調は結論というより、ほとんど命令に近い。 「これ以上事が荒立てば、森宮家にとって不利益にしかなりません。家名を守るつもりなら、紗耶と森宮朝斗(もりみや あさと)の婚約は解消してください。表向きには、まだ正式に決まった話ではないということにすればいい」 千佳子の顔がこわばった。 征司がそんな結論を口にするとは、思ってもみなかったのだろう。 彼女は本来、澪を責めるために来たはずだった。それなのに―― しかし、ほかに選択肢がないことも千佳子には分かっている。 澪は氷嚢を手にしたまま、征司の整った横顔を見た。その目には、どこか自嘲めいた色が浮かんでいる。 澪は、そこでようやく気づいた。 征司の狙いは、最初からこれなのだ。 この騒ぎに紛れて、紗耶と朝斗との縁談をなかったことにする。 そうすれば、いずれ紗耶を自分のそばに置くこともずっと容易になる。 征司はもう、紗耶を堂々と自分のそばに置けるようにしたくて仕方ないのだろう。 「房江、叔母さんを玄関まで送ってくれ」 征司は、千佳子の意向を聞くつもりなど最初からないのだろう。 そう言い終えると、彼は感情の読めない目で澪をちらりと見やり、そのまま二階へ戻っていった。 千佳子は悔しげに唇を引き結んだ。 しかし、いずれ森宮家を実質的に動かす立場になる征司に、今さら逆らうことはできない。 去り際、千佳子はなおも憎々しげに澪を睨みつけて言った。 「専業主婦なんて、所詮その程度なのね。台所に立つことくらいしか取り柄がないくせに、せいぜい見た目が少し整っているだけでしょう。そんなもの、何の役にも立たないわ。 仕事でも、人付き合いでも、紗耶さんに一つでも勝てるものがあるなら、こんな惨めなことにはならないでしょうに。澪、自業自得よ」 澪にはもはや、言い返す気力もなかった。 今になって思えば、あの頃の自分はどうかしていた。尽くし方も、期待の仕方も、すべてが間違っていたのだ。 澪は洗面所へ向かった。 もともと肌が白いせいか、千佳子の手はかすめただけのはずなのに、頬はうっすら赤く腫れている。 澪は、千佳子の手が触れた場所を丁寧に洗い流し、それからしばらくその場で呼吸を整えた。 病院の救急での出来事が外に漏れた。だからと言って、澪は黙って濡れ衣を着せられるつもりなどない。 房江に尋ねると、征司は寝室にいるという。 澪はもはや、何も言わずに入っていくような真似はしない。寝室の前まで来ると、足を止めて扉を叩いた。 扉はわずかに開いていて、中から返事はない。 そのまま少し待っていると、やがて部屋の奥から声が聞こえてきた。 「千佳子、澪に因縁をつけたんじゃない?」 スマホのスピーカー越しに、香澄の声が響いている。 征司は浴室から出て、棚の前に立つと、何かを探すように身をかがめた。 「ああ」 「紗耶さんと一緒に病院へ行ったこと、あれを流したのはあなた?それとも紗耶さん?澪に罪をかぶせて、千佳子の怒りの矛先にするつもり?」 その言葉に、澪の表情がかすかに強ばった。 まさか、そんな馬鹿げた話だとは思いもしなかった。 つまり自分は、二人のことが表沙汰になるのを防ぐために、都合よく盾にされているということなのか。 けれど征司はその問いに答えなかった。 認めたのか、それとも答える価値もないと思ったのか、澪には分からない。 香澄が笑って言った。 「たいしたことにはならないわ。まだまだ抑えられる。澪はあなたに惚れきってるもの。あなたが本当に困るようなことを、彼女がするはずないでしょう」 「分かってる」 征司は気のない声で短く答えた。 しかしそれが香澄のどの言葉を受けてのものなのか、澪には分からない。 扉の外で、澪は無言のまま指先に力を込めた。 情けないほど乱れそうになる呼吸をなんとか押しとどめ、少しずつ気持ちを落ち着かせた。 征司が勝手に決めた「ノックする」という規則にこれ以上付き合う気も失せ、彼女は扉を押し開け、そのまま中へ入った。 物音に気づいたのか、征司はちらりとこちらに目をやっただけで、何も言わなかった。 電話は、すでに切れた。 澪は征司に一度も目をくれなかった。今さら弁解して、自分から厄介ごとに巻き込まれにいく気にはなれない。 彼女は金庫の暗証番号を入力して開けると、大切にしまっている医学の本を取り出した。 征司は、澪の頼りない背中をしばらく見つめていた。 彼女の様子がいつもと違うことには気づいたようだが、わざわざ聞くことはせず、バルコニーから部屋の中へ入っていった。 澪のドレッサーの横を抜けようとしたとき、征司は端に置かれた封筒を見つけた。 次の瞬間、彼はぴたりと足を止めた。

More GoodNovel Novels