プロモーションを読み込み中...
幼馴染の妻の心に、俺以外の男がいた
俺・岡崎健人(おかざき けんと)には一つ、絶対に誰にも言えない秘密がある。 他人の肌に触れると、その人が「今、一番愛している人間」の顔が脳内に視えるという能力だ。 7歳の時、隣の家に引っ越してきた橘結衣(たちばな ゆい)。 その日からずっと、彼女の心の中に映るのは俺だけだった。 公園で初めて手を繋いで走り出した、7歳の夏も。 赤くなりながら「好き」と告白してくれた、16歳の放課後も。 「ずっと一緒にいて」と震える手で逆プロポーズされた、22歳の冬も。 新婚初夜、熱い吐息とともに深く唇を重ねた時も。 彼女の心には、いつだって俺の顔があった。 ――結婚3周年の記念日の朝。 出勤しようとする彼女のストッキングの乱れを直そうと、その足首に指先が触れた時。俺は安心しきった心で、いつものように目を閉じた。 だが、視界に飛び込んできたのは「二つの顔」だった。 一つは俺。 そしてもう一つは――見ず知らずの、若い男の顔。 その日の夜、テーブルに伏せて置かれていた結衣のスマホの画面が光る。 【結衣さん、今日は一日中付き合ってくれて嬉しかったです】 出会ってから21年。何十万回と触れ合ってきた中で。 俺の愛した妻が、初めて「裏切り」に足を踏み入れた瞬間だった。
チャプター (1)
第1章
俺・岡崎健人(おかざき けんと)には一つ、絶対に誰にも言えない秘密がある。
他人の肌に触れると、その人が「今、一番愛している人間」の顔が脳内に視えるという能力だ。
7歳の時、隣の家に引っ越してきた橘結衣(たちばな ゆい)。
その日からずっと、彼女の心の中に映るのは俺だけだった。
公園で初めて手を繋いで走り出した、7歳の夏も。
赤くなりながら「好き」と告白してくれた、16歳の放課後も。
「ずっと一緒にいて」と震える手で逆プロポーズされた、22歳の冬も。
新婚初夜、熱い吐息とともに深く唇を重ねた時も。
彼女の心には、いつだって俺の顔があった。
――結婚3周年の記念日の朝。
出勤しようとする彼女のストッキングの乱れを直そうと、その足首に指先が触れた時。俺は安心しきった心で、いつものように目を閉じた。
だが、視界に飛び込んできたのは「二つの顔」だった。
一つは俺。
そしてもう一つは――見ず知らずの、若い男の顔。
その日の夜、テーブルに伏せて置かれていた結衣のスマホの画面が光る。
【結衣さん、今日は一日中付き合ってくれて嬉しかったです】
出会ってから21年。何十万回と触れ合ってきた中で。
俺の愛した妻が、初めて「裏切り」に足を踏み入れた瞬間だった。
第1話
結婚記念日のディナーのため、俺は一ヶ月も前から人気のフレンチレストランを予約していた。
結衣が「すごく似合う」と褒めてくれた新しいスーツに袖を通し、彼女から贈られた腕時計を身につける。
午後6時。鏡の前でカフスボタンを留めようとしていた時だった。
テーブルに置いていたスマホが震えた。結衣からだ。
「急な出張が入っちゃって。今夜は帰れないの」
電話に出るなり、早口でそれだけを告げられ、ツーツーという無機質な音が耳に響いた。
彼女のほうから、俺の返事も聞かずに電話を切ったのは、これが初めてのことだった。
鏡の中の自分と目が合う。カフスボタンは、片方だけがブラブラと垂れ下がっていた。
親友の古賀瑞樹(こが みずき)から電話があり、妻にドタキャンされて一人になったことをこぼすと「じゃあ俺が付き合ってやるよ。せっかく予約してたんだ、その店に行こうぜ」と呆れ混じりに言われた。
ほどなくして迎えに来てくれた彼の車に乗り込み、俺たちはフレンチレストランに向かうことになった。
だが――その店の前に車が停まり、助手席のドアを開けようとした俺の手は、ドアハンドルの上でピタリと止まった。
ガラス張りの窓際にある席。そこに、結衣が座っていた。
そして、彼女の向かい側――本来なら、今日俺が座るはずだったその席に座っているのは、二十代半ばくらいに見える見知らぬ若い男だった。笑うと口元にえくぼができる、愛嬌のある顔立ちをしている。
結衣がすっと手を伸ばし、自分のハンカチで男の口元についたクリームを優しく拭き取った。
――それは、18歳の頃から今に至るまで、彼女が俺にだけ見せていた甘い仕草だった。
運転席にいた瑞樹もその光景に気づき、「おい、あれって……!」と顔を真っ赤にして車を降りようとした。
俺は慌てて彼の腕を掴み、その動きを止める。
「行くな」
「なんだよあの男!誰なんだよ!」
「……分からない」
その夜、午後11時になって結衣は帰宅した。
毎年の結婚記念日と同じように、真紅のバラの花束を抱えて。
シャワーを浴び終えた彼女は、ベッドに腰掛けていた俺の背中からそっと抱きついてきた。
濡れた髪から香るシャンプーの匂いとともに、華奢な顎が俺の肩に乗せられる。
「健人、今日は本当にごめんなさい。近いうちに、絶対に埋め合わせするから」
俺は静かに目を閉じた。
彼女の肌に触れたことで、俺の脳内に「映像」が流れ込んでくる。
結衣が今、一番愛している人間の顔。
そこに浮かび上がったのは、二つの顔がせめぎ合うように交差する奇妙な光景だった。
俺の顔と、あのえくぼの男の顔。
半分ずつ、きっちりと分かたれていた。
出会ってから21年。
彼女の心の中に、俺以外の男の存在が入り込んでいるのを視たのは、これが初めてだった。
結衣が深い眠りに落ちた後、俺はサイドテーブルに置かれていた彼女のスマホに手を伸ばした。
ロック解除のパスコードは、俺の誕生日のまま変わっていない。
メッセージアプリを開くと、一番上にピン留めされているトークルームがあった。
アカウント名は、柊悠真(ひいらぎ ゆうま)。
やり取りを遡ると、始まりは半年前だった。
最初は業務上の連絡だけだったものが、少しずつ日常の雑談にすり替わり、味気ない【了解】のスタンプは、いつしか【おやすみ】の甘い言葉に変わっていた。
【今日、なんだか気分が沈んでるんで……甘いものが食べたいです】
それに対する、結衣の返信。
【下の階のケーキ屋さんで、ミルフィーユ買ってってあげるね】
また別の日。
【この前教えてくれたお店、一人で行ったんですけど微妙でした。次は絶対に付き合ってくださいよ】
そして、一番新しいメッセージは、つい先ほど送られてきたものだった。
【結衣さん、今日は一日付き合ってくれてありがとうございました】
俺は無言のままスマホを裏返し、ベッドに潜り込んだ。
隣で寝返りを打った結衣が、無意識の習慣のまま俺の胸元にすり寄ってくる。
寝言のように、小さく寝息を立てる妻。
「……今日は、誰と一緒にいたんだ?」
俺の問いかけに、結衣は夢うつつのまま「んん……」と声を漏らし、俺の体をさらに強く抱きしめた。
「……クライアントと……」
俺は、それ以上何も聞かなかった。
翌朝、出勤しようとする彼女は、玄関で俺の額に軽くキスをした。
「健人、昨日は本当に外せなくてごめんなさい。週末は一緒に温泉にでも行きましょう」
結衣は、昔と少しも変わらない無邪気な笑みを浮かべていた。
俺はしばらく彼女の顔を見つめた後、短く「分かった」とだけ返した。
彼女が家を出て行った後、俺は昨日着ていた真新しいスーツを丁寧に折りたたみ、クローゼットの一番奥底へとしまい込んだ。
昼になり、瑞樹から「大丈夫か」と電話がかかってきた。
俺が淡々と昨夜の話をすると、電話の向こうは数秒間の沈黙に包まれた。
「健人……お前、7歳の頃からずっとあいつだけを見てきたじゃないか」
「ああ、そうだな」
「これから、どうするつもりなんだよ」
窓の外に目をやると、雲一つない真っ青な空が広がっていた。
「……俺にも、分からない」
第2話
午後、俺は結衣の会社へ向かった。
オフィスビルのエレベーターに乗り込むと、見覚えのある人が後から乗ってきた。
昨夜、レストランで結衣と一緒にいた男だ。
男は俺の顔を見るなり、愛想のいい笑みを浮かべて手を差し出してきた。
「もしかして、結衣さんの旦那さんですか?初めまして、アシスタントの柊悠真です」
初対面とは思えないほど馴れ馴れしく、悪びれる様子もない堂々とした振る舞いだった。
彼が目的の階のボタンを押して俺の隣に並んだ時、彼のスマホが鳴った。
「結衣さんのことですか?ああ、彼女はお昼なんて食べませんよ。コーヒーだけで済ませるのがいつもの癖ですから」
わざわざ俺に聞こえるような声で電話の相手にそう告げると、柊は通話を切り、ニヤリと笑ってこちらを見た。
「旦那さん、今日は結衣さんとランチですか?」
エレベーターの扉が開く。俺は彼の言葉を無視して廊下に出た。
社長室に入ると、結衣は書類の山に埋もれるようにしてパソコンに向かっており、顔を上げようともしなかった。
俺は持ってきた保温ランチジャーをデスクの空いたスペースに置いた。
「昼飯、まともに食べてないんだろう?」
「んー……忙しいと、どうしても忘れちゃって」
そこへ、柊が「書類の確認お願いします」とノックもそこそこに入ってきた。
彼はデスクの上に置かれたランチジャーに目を留めると、大げさな声を上げた。
「うわ、旦那さんマメですねー!結衣さんがこの前『美味しい豚の角煮が食べたい』って言ってたから、わざわざ作ってきてくれたんですね」
パソコンから目を離さない結衣が食べやすいように、おかずの容器から角煮を一つ摘まみ上げて彼女のご飯に乗せてやろうとしていた俺の箸が、宙でピタリと止まった。
結衣は俺の様子にも気づかず、黙々と自分の箸を動かし続けている。
柊が部屋を出て行き、社長室には再び俺と結衣の二人だけになった。
「あいつ……随分とお前のことを理解してるんだな」
「え?」
「柊だよ。お前が昼食を抜くことも、コーヒーしか飲まないことも知っていた」
結衣はカチャリと箸を置いた。
「健人、彼は私のアシスタントよ。上司の仕事のルーティンを把握するのも、彼の仕事のうちでしょ?」
「……そうか?」
「もう、また変なこと考えてるんでしょ?私の心にはあなたしかいないのに」
彼女はわざとらしくため息をつくと、また視線を落として食事を再開した。
その日の夜。
結衣は夜の十時を過ぎても書斎にこもり、仕事の続きをしていた。
俺がカットしたフルーツを皿に盛って書斎へ入った時、彼女のスマホの画面が光った。
ポップアップの通知。柊からのメッセージで、彼自身の自撮り写真が添付されていた。
結衣は俺の目の前で、慌てたようにスマホを裏返し、画面を伏せてデスクに置いた。
「……会社の人から」
「何も聞いてないよ」
俺はフルーツの皿をデスクの端に置き、静かに書斎を出た。
ドアノブに手を掛けたまま、俺は2秒だけ立ち止まった。
背後から、俺を引き止める声は聞こえなかった。
日曜日。
結衣の提案で、すっぽかされた結婚記念日のやり直しをすることになった。
二人が向かったのは――あの日、俺が記念日のために予約し、彼女が別の男と座っていたあのレストランだった。
店に入った途端、案内役のギャルソンが愛想良く微笑みかけてきた。
「岡崎社長、いらっしゃいませ。本日もいつものお席でよろしいでしょうか?」
案内されたのは、窓際にある奥から二番目のテーブル席。
どうやら彼女は、俺に隠れてこの店に何度も足を運び、すっかり顔馴染みになっていたらしい。
向かい合わせに座り、俺は彼女の隣にある空の椅子に視線をやった。
「ここ、誰か別の人間と来たことがあるのか?」
テーブルのピッチャーからグラスに水を注ごうとしていた結衣の手が、一瞬だけピタリと止まる。
「……クライアントの接待で使ったことがあるのよ。どうして?」
「いや、いい席だなって思っただけだ」
やがてコース料理が進み、メインの肉料理が運ばれてきた。
化粧室から戻ってきた結衣は、手慣れた様子でナイフとフォークを使い、自分の分の肉を一口大に切り分け始めた。
「結衣。最近、俺たちの間に誰か別の人間が入り込んでいるような気がしないか?」
肉を切り分けていた彼女の手が、今度は半拍ほど長く止まった。
しかし、すぐに何事もなかったかのようにナイフを動かし始める。
「誰かって?どうして急にそんなこと言うの?」
「いや、ちょっと思っただけだ」
彼女は切り分けた肉にソースを絡め、静かに自分の口へと運んだ。
店を出た直後、結衣のスマホの画面が光った。
彼女は俺から少し体を逸らしてメッセージを返していたが、俺の視界の端にその画面が映り込んだ。
柊からのメッセージだった。
【結衣さん、また明日】
彼女はそれに対して、可愛らしいキャラクターのスタンプを一つ返した。
そしてスマホをロックすると、自然な動作で俺の右手を握ってきた。
「さ、帰ろっか」
俺は彼女に手を引かれるまま歩き出し、繋がれた二人の手をじっと見下ろした。
街灯の光がアスファルトを照らし、二つの影が前後に伸びている。
ふと、18歳の時に初めて彼女から手を繋いできた日のことを思い出した。
あの時、俺が目を閉じて彼女の肌に触れると、心の中には俺の顔だけが溢れんばかりに満ちていた。
俺は静かに目を閉じ、繋いだ手から彼女の手首へと指を滑らせた。
――二つの顔は、まだそこにあった。
一つは俺。もう一つは柊。
どちらの顔が勝るわけでもなく、境界線は残酷なほどきっちりと、半分ずつのままだった。
俺の足が止まったことに気づき、結衣が振り返った。
「どうしたの?歩かないの?」
「……いや、行こう」
俺が再び歩き出すと、彼女は俺の指に自分の指を絡め、さらに強く手を握りしめてきた。
昔と何も変わらない、ごく自然な、愛情に満ちた握り方だった。
だが、俺には分かっていた。
もう何もかもが、決定的に違ってしまっているということが。
第3話
その日の夜11時。
結衣は家の書斎で残業を続けていた。
俺はホットミルクをマグカップに淹れ、書斎へと向かった。
ドアは完全には閉まりきっておらず、数センチの隙間が開いていた。
中から、結衣が誰かと電話をしている声が漏れ聞こえてくる。
それは、ここ最近俺の前では決して見せなくなった、甘く、とろけるような優しい声だった。
「うん……先に寝てて。続きはまた明日ね。……私も、会いたいよ」
通話を終えた結衣がふと顔を上げると、ドアの隙間に立っている俺の姿が見えたのだろう。ビクッと肩を震わせ、固まった。
「……どうして、まだ起きてるの?」
「部下に対して、随分と甘い声で話すんだな」
「ただの普通の会話じゃない。変な勘ぐりするのはやめてよ」
俺は何も言い返さず、きびすを返してその場を離れた。
背後で、書斎のドアが「カチャリ」と冷たい音を立てて閉まるのが聞こえた。
以前の彼女は、家で仕事をする時、書斎のドアを閉め切ることなど絶対に一度もなかったのに。
俺はベッドに腰掛けたまま、彼女が書斎から出てくるのを20分ほど待っていた。
やがて寝室のドアが開き、入ってきた結衣は、俺がまだ起きているのを見て少し驚いたような顔をした。
「結衣、一つだけ聞いてほしいことがあるんだ。
俺には昔から、ある特殊な能力がある。人の肌に触れると、その人が『今、一番愛している人間』の顔が脳内に視えるんだ」
上着を脱ごうとしていた彼女の手が、ピタリと止まった。
「7歳の時、初めてお前と手を繋いだ日。俺の目に映ったのは、俺自身の顔だった。
18歳で初めてキスをした時も、俺だった。俺にプロポーズしてくれたあの日も、ずっと俺だったんだ。
でも……結婚3周年の記念日の朝。お前の肌に触れた時、初めて二つの顔が視えた。俺と、あの柊とかいう男の顔だ」
長い沈黙が寝室に下りた。
やがて、結衣はふっと鼻で笑った。
「あなた、随分と想像力が豊かなのね。最近、一人で家にいる時間が長くてストレスでも溜まってるんじゃない?」
「冗談なんかじゃない。俺は真実しか言ってない」
彼女の顔から、すっと笑顔が消え失せた。
「健人、やっぱりあなた少し疲れてるのよ。一度、心療内科でも受診してみたら?」
俺は無言で立ち上がり、結衣の腕を強く掴んだ。
「なら、今ここで証明してやる。目を閉じて、誰か一人を思い浮かべてみろ。
お前の心の中にいる人間が誰なのか、俺が当ててみせるから!」
バシッ!
結衣は、俺の手を思い切り振り払った。
決して大きな動きではなかったが、そこには明らかな拒絶の意志が込められていた。
「いい加減にしてよ、健人!柊くんに個人的な恨みでもあるわけ!?
彼にはちゃんとお付き合いしている彼女がいるのよ?
あなたの勝手な妄想で、彼に迷惑をかけるような真似は絶対にやめてちょうだい!」
激昂した結衣は、脱ぎかけた上着を再び羽織ると、そのまま足早に寝室から出て行ってしまった。
バタン、と玄関のドアが乱暴に閉まる音が響く。
俺はその場に立ち尽くしたまま、彼女の温もりが微かに残る自分の掌を、ただ虚しく見つめていた。
……
結衣が家に帰ってきたのは、深夜の2時を回った頃だった。
酷く酒の匂いを漂わせた彼女が寝室に入ってくる気配を感じ、俺は目を閉じて寝たふりをした。
彼女は音を立てないようにそっとベッドに潜り込むと、少しして、いつもの無意識の癖で俺の胸元にすり寄ってきた。
俺は閉じた目のまま、彼女の肌にそっと触れた。
――そこに在ったのは、たった一つの顔だった。
柊の顔。
俺の顔は、もう半分すらも残っておらず、跡形もなく完全に消え去っていた。
結衣は俺の腕を引き寄せ、自分の腰に回すように抱きつかせてきた。すぐ耳元で、アルコール混じりの寝息が聞こえる。
出会ってから21年。
彼女の心の中から、俺という存在が完全に消滅した瞬間だった。
俺は、彼女の腰に回された自分の腕を、静かに引き抜いた。
「ん……動かないで……」
寝言のように呟く結衣。
俺は彼女の呼吸が再び規則的なリズムを刻むのを待ち、背を向けるようにして寝返りを打った。
空が白み始めた頃、俺はベッドを抜け出した。
最低限の荷物だけを小さなボストンバッグに詰め込み、俺は夫婦の寝室を出て、使っていない空き部屋へと移った。
翌朝。
ダイニングで朝食を準備していると、起きてきた結衣が空き部屋の前に置かれた俺のルームシューズに目を留めた。
「どうして別の部屋で寝てたの?」
「昨夜はなかなか寝付けなくてね。寝返りで起こしたら悪いと思ったんだ」
「ふーん……」
結衣はそれだけ生返事をすると、スマホの画面に視線を落とした。
なぜ俺が別の部屋に移ったのか、それ以上深く追及してくることは、一度もなかった。
別の部屋で寝起きするようになって3日目。
俺の健康診断の結果が届いた。
胃に腫瘍らしき影があり、早急に精密検査が必要だという所見だった。
結果の紙を日記帳に挟み、その余白にペンを走らせる。
【一番傍にいてほしい時、彼女の心にもう俺はいない】
午後。
俺はタクシーで結衣の会社へと向かった。
本社ビルの下に着いた時、ちょうど柊が車のドアを開けているところだった。
結衣が身を屈め、助手席に乗り込む。
昔から彼女は、俺が運転する時しか助手席には座らなかったはずなのに。
柊は彼女が乗り込む際、頭をぶつけないように手で車の屋根の縁を覆って庇った。
そのさりげない気遣いは、かつて俺だけが彼女に向けていたものだった。
「運転手さん、やっぱり戻ってください」
乗ってきたタクシーの座席で、鞄に入った診断結果の紙が手に当たるのを感じながら、俺は二人を呼び止めることはしなかった。
その日の夜。
結衣が帰宅し、俺はリビングのソファで彼女を待ち構えていた。
「今日、お前の会社に行ったんだ」
俺の言葉を聞いても、彼女は靴を脱ぐ手を止めようとしなかった。
「どうして上がってこなかったの?」
「上がって、何を言えばよかったんだ?」
結衣はチラリとこちらを見て、あからさまに苛立った顔をした。
「……また、何よ?」
「お前が、あいつの車の助手席に乗るのを見た。あいつがお前の頭を庇ってドアを閉めるのも。まるで、俺たちがずっとそうしてきたみたいにな」
彼女は深いため息をついた。
「健人、柊くんは私のアシスタントなのよ?上司を気遣うのは最低限のマナーでしょ。
昔のあなたはそんなんじゃなかった。もっと大らかで、物分かりが良かったのに」
「大らか?俺とだけ共有していた特別なはずの仕草を、他の男と平気でやっているのを見ても笑って許せと?
それができないなら、俺が心が狭いって言うのか?」
結衣は面倒くさそうに眉間を揉んだ。
「今日は疲れてるの。言い争いはしたくないわ」
そう言い捨てると、彼女は書斎に入り、バタンと冷たい音を立ててドアを閉めた。
以前なら、彼女の振る舞いにもある程度は目を瞑ることができたかもしれない。
だが今は、ただひたすらに疲労感しかなかった。
第4話
数日後。
俺はメッセージで、精密検査を受けに行くのに付き添ってほしいと彼女に頼んだ。
結衣からは【分かった】とだけ返信があった。
だが翌朝の7時。彼女から一通のメッセージが届いた。
【ごめん、急な出張が入っちゃった。明後日には帰るね。具合が悪いならタクシーで行って。愛してるよ】
すぐに電話をかけたが、電源は切られていた。
嫌な予感がして彼女の会社の受付に問い合わせると、電話口の女性社員は「本日は社長の出張の予定は入っておりませんが……」と困惑した声で答えた。
俺は一人でタクシーに乗り、病院へ向かった。
待合の廊下では、長椅子に座る夫のマフラーを妻が甲斐甲斐しく直している姿や、足元のおぼつかないお爺さんに肩を貸してゆっくりと歩いていくお婆さんの姿が目に入った。
誰もが、一番傍にいてほしい人に寄り添われている。
行き交う人々の中で、俺だけがぽつんと独り、冷たい長椅子に座っていた。
担当医からは、胃の腫瘍が悪性かどうかを調べるため、早急に病理検査をする必要があると告げられた。
「ご家族は……来ていらっしゃらないのですか?」
「自分でサインします」
俺がそう答えると、担当医は気の毒そうな目で俺を見た。
「奥様は……?」
「出張に、行っています」
医師はそれ以上、深く聞いてこなかった。
検査の順番を待っている間、何気なく開いたSNSで、柊の投稿がタイムラインに流れてきた。
海辺に沈む夕日の写真が、何枚もアップされている。
添えられたテキストにはこう書かれていた。
【ストレスが溜まると海が見たくなるっていうある人に、今日は強引に連れ出されました。さすがウチのボスは行動力が違う(笑)】
そして、最後の一枚。
写真の右下に、車の助手席に置かれた女性の左手が写り込んでいた。
その薬指で光っているプラチナの指輪は――俺の左手にあるものと、全く同じペアリングだった。
その日の夜10時。突如として、胃を直接抉られるような激しい痛みに襲われた。
俺は一人でタクシーを呼び、夜間救急へと駆け込んだ。ストレッチャーに乗せられ、慌ただしく処置室へと運ばれる。
医師の診断は、胃の腫瘍から大量出血を起こしており、一刻も早い内視鏡による緊急止血処置が必要だというものだった。
「ご家族の方は……まだ到着されていませんか?」
「俺が、自分で同意書にサインします」
処置がすべて終わったのは、午前3時のことだった。
病室のベッドの上。麻酔の切れかけた体で痛みに耐えながら、俺は結衣に何度も電話をかけた。
しかし、何度かけても「電源が入っていない」という無機質なアナウンスが返ってくるだけだった。
俺は最後に一通だけメッセージを残した。
【緊急事態だ。すぐに帰ってきてほしい】
彼女から折り返しの電話がかかってきたのは、翌日の午後になってからだった。
電話口の向こうからは、ざざーっという波の音と、車の走行音が微かに聞こえた。
「ごめんね、今飛行機を降りたところ。どうしたの?」
嘘だ。
俺は傷口の痛みに顔を歪めながら、淡々と答えた。
「……いや、もう解決した」
「そっか、ならよかった!夜には家に着くから。お土産に新鮮なカニを買っていくね」
一方的にそう言い残して通話が切れた後、俺は絶対安静だと言う医師の制止を振り切り、半ば強引に自己退院の念書を書いて自宅へと戻った。
その夜、結衣は家に帰ってきた。
俺は明かりもつけず、真っ暗なリビングのソファに深く腰掛けていた。
「どうして電気もつけないで座ってるの?」
彼女はそう言いながら、手提げの保冷バッグに入ったカニをダイニングテーブルの上に置いた。
「立派なカニでしょ?明日、茹でてあげるね」
俺は何も返さなかった。
結衣は俺の向かいに座ると、ようやく俺の顔色が蒼白なことに気がついたらしい。
「ちょっと健人、すごく顔色が悪いわよ?熱でもあるんじゃないの?」
彼女が心配そうな顔を作って俺の額に手を伸ばしてくる。
俺は顔を背け、その手を静かに払いのけた。
「……お前に、言っておかなければならないことがある」
「え?」
「俺の胃に……」
俺が真実を告げようと口を開きかけた、まさにその瞬間だった。
静まり返ったリビングに、陽気な電子音が鳴り響いた。
柊からの着信にだけ、彼女がわざわざ設定している個別の着信音だ。
結衣は即座にスマホの画面を見下ろした。
その瞬間にパッと華やいだ彼女の顔つき――それは、俺が昔から痛いほどよく知っている「愛する人を想う女」の表情そのものだった。
彼女は「ちょっと待ってて」と手で俺を制し、急いで通話ボタンをスワイプした。
「もしもし?どうしたの?」
電話の向こうの声は小さかったが、静かな部屋の中で距離も近かったため、俺の耳には一言一句はっきりと聞こえていた。
「結衣さん……僕、熱出ちゃったみたいで。体だるくて動けないんです。ちょっとだけでいいから、来てくれませんか……?」
「えっ、熱測った?何度あるの?」
「38度5分……」
結衣は弾かれたように立ち上がり、スマホを耳に当てたまま早足で玄関へと向かい始めた。
「待ってて、すぐに行くから!」
靴を履きかけたまさにその時、彼女は思い出したように俺の方を振り返った。
「健人、ごめんなさい!柊くんが高熱を出してて、一人暮らしで看病する人が誰もいないの。
ちょっと様子を見に行くだけだから、すぐに帰ってくるわね!
大事な話は、また後でゆっくり聞くから!」
口元まで出かかっていた俺の言葉は、足早に去っていく彼女の背中を見送るうちに、行き場を失い、喉の奥へと飲み込まれていった。
バタン、と冷たい音を立てて玄関のドアが閉まる。
ドアの向こうから、エレベーターホールへと遠ざかっていくヒールの足音が聞こえてきた。
誰もいなくなった薄暗いリビング。
テーブルの上には、保冷バッグに入れられたままのカニが虚しく残されている。
出会ってから、21年。
俺の心の奥底にほんの僅かだけ残っていた、結衣に対する最後の一欠片の未練。
それが今――冷たい灰となって、完全に消え去ったのを感じた。