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見えぬ愛にさよなら
私・清原怜(きよはら れい)は目が見えない。 それなのに、親友の南井理穂(みない りほ)はいつも「怜って本当に恵まれてるよね」と言っている。 幼い頃からずっと、幼なじみの馬淵将司(まぶち しょうじ)が、忘れずに私の手を引いてくれるからだ。 将司は冗談めかしてこう言ったことがある。 「お前って本当に悪い女だな。でも、俺は一生縛られても構わない」 だから結婚式の前夜、将司が裏アカウントに投稿した動画の内容を聞いたときも、疑うことすらしなかった。 「悪い女に狂わされた。どうしよう? 結婚まで絶対に手を出さないって決めてたのに、あいつの写真を見るたびに、どうしようもなく胸が騒ぐんだ。 あいつのせいで、俺の体はおかしくなっちまった」 コメント欄では、【今すぐその悪い女のところへ行って責任を取ってもらえ】と、将司をけしかける声が相次いでいる。 スマホの読み上げ機能でそれを聞きながら、私は恥ずかしさに頬を赤らめる。 けれど、一晩中待っても、将司が私の部屋のドアを叩くことはなかった。 結婚式当日、控室で待っていた私のもとに届いたのは、理穂のSNS投稿だ。 【最後の夜。明日から、あなたは別の人のものになる】 思わず、口元が引きつる。 これが「恵まれている」ということなら、いらない。理穂も将司も、もういらない。
チャプター (1)
第1章
私・清原怜(きよはら れい)は目が見えない。
それなのに、親友の南井理穂(みない りほ)はいつも「怜って本当に恵まれてるよね」と言っている。
幼い頃からずっと、幼なじみの馬淵将司(まぶち しょうじ)が、忘れずに私の手を引いてくれるからだ。
将司は冗談めかしてこう言ったことがある。
「お前って本当に悪い女だな。でも、俺は一生縛られても構わない」
だから結婚式の前夜、将司が裏アカウントに投稿した動画の内容を聞いたときも、疑うことすらしなかった。
「悪い女に狂わされた。どうしよう?
結婚まで絶対に手を出さないって決めてたのに、あいつの写真を見るたびに、どうしようもなく胸が騒ぐんだ。
あいつのせいで、俺の体はおかしくなっちまった」
コメント欄では、【今すぐその悪い女のところへ行って責任を取ってもらえ】と、将司をけしかける声が相次いでいる。
スマホの読み上げ機能でそれを聞きながら、私は恥ずかしさに頬を赤らめる。
けれど、一晩中待っても、将司が私の部屋のドアを叩くことはなかった。
結婚式当日、控室で待っていた私のもとに届いたのは、理穂のSNS投稿だ。
【最後の夜。明日から、あなたは別の人のものになる】
思わず、口元が引きつる。
これが「恵まれている」ということなら、いらない。理穂も将司も、もういらない。
第1話
スマホの読み上げ機能が、無機質な声で理穂の投稿を読み終えた。続いて、写真も添付されていると告げられた。
けれど、私は何も見えない。もう、完全に視力を失っている。
だから、二人の関係を疑っても、自分の目で確かめることすらできないのだ。
夏だというのに、ウェディングドレスを着ている私は肌寒く感じてしまう。
手探りで歩きながら、理穂と将司を探す。二人を見つけて、直接問いただすつもりだ。
けれど、扉の枠に手が触れた瞬間、少し離れた場所から理穂の笑い声が聞こえてきた。
「将司、二人の誓いの言葉を見せてよ」
紙を取り上げる音がする。そして、理穂が声に出して読み始める。
「俺はこれからも君の目になる。愛している。君は俺の足枷だ」
周囲から笑い声が上がる。将司も、笑いながら言う。
「勝手に変えるなよ。怜が怒ったら、また機嫌を取らなきゃ」
すると、理穂の声がふいに低くなる。「本当に彼女と結婚するの?」
将司は少し沈黙した。
「怜は俺を助けようとして目を失ったんだ。もう10年以上ずっと一緒にいる。式の準備だって、ここまで進んでるし、俺が責任を取るしかないだろ」
長い間、何も見えない世界で生きてきたせいか、耳は人一倍鋭くなっていた。
理穂が将司の腕を引き、少し離れた場所へ連れていく気配がする。そして、泣きそうな声で言う。
「昨日のことも、ちゃんと責任を取ってくれるよね」
理穂は少し間を置いて、続けて言う。
「私、まだ痛いんだから」
やはり。昨夜、二人の間に何かあった。
スタッフに呼ばれ、そろそろ会場へ向かう時間だと告げられる。
ドレスの裾を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込む。自分がひどく滑稽に思えた。
「責任なら、もちろん取るさ」将司が優しい声で答える。
「だって理穂は、俺の体をこんなふうにした、悪い女だからな」
理穂が甘えるように笑い、将司の胸を軽く叩く音がする。
「私が悪い女?違うわよ。将司を一生縛りつけてるのは、怜のほうじゃない」
「わかってるよ。理穂に言う『悪い女』は、愛情表現みたいなものだから」
そういうことか。将司が私に言っていた「悪い女」という言葉には心底からの嫌悪が込められていたのだ。
6歳の時、私は将司と一緒に拉致された。危険な目に遭った将司を助けようとして、私は目を傷つけられ、視力を失った。
けれど将司にとっては、私が目を失ったことなど、彼の人生を縛る鎖でしかなかったのだ。
将司と理穂が近づいてくる足音が聞こえる。将司が、ごく自然な調子で言う。
「結婚式くらい、あいつにくれてやればいい。
どうせあいつには見えないんだ。結婚したあとなら、俺も堂々とお前を大事にできる。
ほら、急ごう。そろそろ始まる」
私はとっさに扉の陰へ身を隠した。片手で口を押さえ、体の震えを必死に抑え込む。
もう片方の手は、握りしめたリングケースを何度も撫でる。
10分後。本来なら私は将司と、大勢の招待客に見守られながら、互いに永遠を誓っているはずだった。
そのために、二つの指輪を用意していた。一つは理穂に贈るためのものだ。今までずっと私を励まし、慰めてくれたことへの感謝を込めて。
もう一つは将司に贈るためのものだ。目の見えない私を受け入れてくれた彼への感謝を込めて。
二人は、私にとって何より大切な存在だった。まさか、そんな二人に裏切られるなんて。
スタッフに手を引かれながら会場へ向かう途中、近くにいた将司の友人たちの笑い混じりの声が耳に入ってくる。
「目が見えないんじゃ、何をするにも大変だろ」
「清原家の令嬢じゃなかったら、将司には釣り合わないよな」
私は何も言わず、その場に立ち尽くした。将司も、何も言わない。
以前なら、誰かが私の障害を笑いものにすれば、彼が真っ先に止めてくれた。「俺のために視力を失ったお前を、二度と傷つけさせない」と言った。
だが今の将司は、ただ苛立ったように急かすだけだ。「みんな待ってる。早く来いよ」
私が一歩も動かないでいると、彼は眉をひそめて言う。
「あいつらも今日はテンションが上がってて、少し口が滑っただけだろ。いちいち気にするな」
誰かが慌てて取り繕う。
「まあまあ、ちょっとした冗談じゃないですか。
ウェルカムボードのお二人のほうが、よっぽど夫婦らしく見えますよ」
ウェルカムボード?心臓がドクンと跳ねた。将司が口を開くより早く、私は隣にいるスタッフの袖をつかむ。
「すみません。ここに、ウェルカムボードが飾ってあるんですか?」
「はい。でも写真は確か、清原様ではなく、南井様……でしょうか?」
目が見えないことをいいことに、結婚式の会場にまで、将司と理穂の写真が飾られていたのだ。
周囲が不気味なほど静まり返った。長い沈黙のあと、将司がようやく口を開く。
「怜、違うんだ。話を聞いて……」
「説明なんて、いらない」
私はかすれた声で言う。
「結婚はやめる」
第2話
「誰か代わりに結婚したい人がいるなら、その人と結婚すればいい」
もう、限界だ。言葉を口にするたび、残された力をすべて使い果たしていく。
「将司も、理穂も私にとって、一番大切な人だった……二人が一緒になりたいなら、それでいい」
そう言い残し、背を向けた。前方には、取材をしようと待ち構える報道関係者が集まっている。背後では、招待客たちのざわめきが広がっている。
胸を刺すような屈辱に耐えながら、何も見えない闇の中を、ただ前へ進んだ。
「皆さん、申し訳ありません。招待状の日付を間違えてしまったようです。怜と俺の結婚式は3日後です。今日は、そのためのリハーサルで……」
将司は取り繕うように嘘を並べ立てると、足早に私を追いかけてくる。私を人目につかないところへ連れていく。
「もうすぐ夫婦になるんだぞ。なんでそんなに感情的になるんだよ」
将司と向き合う気にはなれない。けれど将司は、私の顔を両手で包み込む。
「根も葉もないことで意地を張るのはやめてくれ。
あのウェルカムパネルはサプライズのつもりだったんだ。俺だって、理穂のことを気にせず、大目に見ようとしたのに。
お前が大切にしてる親友にも、結婚式に関わってもらいたかっただけだ。
それなのに、どうして怒るんだよ?」
まるで自分だけが正しいと言わんばかりの口調だ。
吐息が、まぶたにかかる。かつては愛おしく思えたその熱が、今はただ吐き気を催させるだけだ。これ以上、言い争う気力も残っていない。
将司がなおも何か言おうとしたその時、突然、扉が開く。
「やっぱり今日のはリハーサルだったの?本番そのものみたいで驚いちゃったわ。
将司も怜も、どうして私にまで内緒にしてたの?」
理穂が軽い足取りで近づいてくる。
「こんなに長い付き合いなんだから、怜。まさかまだ、私と将司のことで焼きもちを焼いてるんじゃないよね?私たちなんて、もう親友みたいなものじゃない」
その声は、以前なら優しく聞こえていた。けれど今は、ひどくわざとらしく感じる。
「リハーサルに出たくないなら、少し休んだら?もし嫌じゃなかったら……私が代わりに出ようか?」
「ええ、構わないわ」私は即答する。
将司の声が、途端に切羽詰まったものへ変わる。
「だめだ!怜と俺の結婚式だぞ。理穂が代わるなんて、おかしいだろ」
「何がおかしいの?私たち、やましいことなんて何一つないじゃない」
理穂にそう問い返されると、将司は反論の言葉を失い、押し黙った。
私は、わずかに口元をゆるめる。さっきまで胸を占めていた悲しみも憎しみも、少しずつ静まっていった。
何度も思い出す。将司はいつだって、私の手を握りながら言っていた。
「俺にとって一番大切なのは、ずっと怜だ」
今になって思えば、あまりにも滑稽だ。私は背を向け、立ち去ろうとすると、将司に手をつかまれた。その指を一本ずつ外し、振り返ることなく歩き出した。
……
家に戻ると、真っ先に両親へ電話をかける。
「将司とは、結婚しない」
少しだけ間を置く。
「前に紹介してくれたお見合い相手の資料、もう一度送って」
ここ数年、馬淵家は少しずつ勢いを失っていた。両親は、将司が私を心から大切にしているわけではないと感じていて、結婚にも賛成していなかった。
それでも私は、自分の気持ちを貫いた。けれど、それで両親が考えを変えることはなく、結婚式への出席すら断られていた。
「今日は怜と将司が結婚する日じゃなかったの?いくらリハーサルとはいえ、別の人にバージンロードを歩かせるなんて」
しばらくして、結婚式場の様子を動画に撮っていた友人から電話がかかってきた。
理穂は、私のドレスを身にまとったまま、バージンロードを歩き、将司と誓いの言葉を交わし、将司の手から指輪を受け取ったという。
リハーサルだというのに、二人が誓いの言葉を交わす声には、演技とは思えないほどの感情が宿っている。
胸の奥が、じんわりと痛む。そこで、ふと思い出した。
私はずっと、白いウェディングドレスを着たかった。けれどドレスを選ぶ時、理穂に強く勧められて、赤いドレスに変えた。
目が見えない私は、赤のほうが似合うという彼女の言葉を信じ、すべてを委ねてしまった。
今になって考えれば、赤は、理穂が一番好きな色だ。彼女は最初から、この結婚式を自分のものにするつもりだったのだ。
深く息を吸い、スマホを置く。そして、家の中にある将司に関係するものを、一つずつ整理し始める。
将司が何度も寺に足を運び、私のために手に入れたというお守りの腕輪や、旅先で撮った二人の写真……
何も見えないから、それらがどんな姿をしているのか、一度も自分の目で確かめたことはない。
けれど、将司を心から愛していた頃は、何度も何度も指先で触れてきたものばかりだ。
それらを抱え、家の外へ出る。もう捨ててしまうつもりだ。すると、近くを通りかかった老婦人が声をかけてきた。
「お嬢さん、それ、あなたの家の物かい?」
何か欲しいのだと思い、それらを差し出す。だが、老婦人は受け取らない。
「いらないよ。ただ、妙だと思ってね。若いお嬢さんが、こんな真っ赤な腕輪を身につけるのは、少し派手すぎるんじゃないかと思って」
確か腕輪をくれたあの時、将司は「落ち着いた木の色をしたものだ」と言っていたはずだ。
「それに……どうして家の中に、男の人と知らない女の人がキスしてる写真まで置いてあるの?」
「……何ですって?」
老婦人の戸惑った声が耳に届く。
「写真に写っている女の人、お嬢さんじゃないだろう?
家の中に、そんな写真を置いておくなんて、おかしいよ」
第3話
写真も腕輪も、分別して指定のゴミ袋に入れ、集積所へ出す。
まるで魂を抜き取られたかのような虚脱感を抱え、足元もおぼつかないまま部屋へと戻る。胃の奥から酸っぱいものがせり上がり、ひどい吐き気に襲われる。
将司と理穂に裏切られたこと自体は、もう受け入れられる。
けれど、自分が二人の関係を盛り上げるための、ただの道具として扱われていたことだけは、どうしても受け入れられなかった。
何年も前から、二人は私に隠れて関係を続けていた。私の家には、二人だけの親密な写真が飾られていた。私に向けられていた祝福の言葉さえ、すべて嘘だった。
何も見えない私をあざ笑うように、二人の行動には、これ見よがしな挑発さえ混じっていた。
夜も更けてから、将司がようやく帰ってくる。
「起きてたのか。まだ怒ってる?」
リハーサルのはずなのに、将司から酒の匂いが漂っている。もしかすると、あのまま理穂と本番さながらの時間を過ごしてきたのだろうか。自虐的な考えが頭をよぎる。
スリッパが床を踏む音が、一歩ずつ近づいてくる。
「怜、いい加減にしてくれ。お前があんなことを言い出したせいで、どれだけ恥をかかされたと思ってる?
いきなり結婚をやめるなんて言い出して、俺の立場はどうなるんだ。
ただでさえ俺が清原家の婿にふさわしくないって言う奴は多かったのに、今じゃ帝都で笑い者にされたんだぞ」
かすれた声で被害者を装うその態度に、背筋が凍りつく。
以前の私は、自分の障害で、いつもどこかで引け目を感じていた。だからこそ、ずっと私のそばで支え、守ってくれた将司を傷つけまいと必死だった。
将司がほんの少しでも不機嫌そうにすると、私は自分から歩み寄って機嫌を取った。そのたびに、彼の違和感のある言動から目をそらしてきた。
今になって思えば、将司は私の障害を利用して、理穂との関係を隠していた。それだけではない。何度もわざと傷ついたふりをして、私の同情心まで利用していたのだ。
将司が身をかがめる。顔がすぐ近くまで迫ってくる気配に、体が強張り、生理的な嫌悪感に突き動かされ、思わず身体を横へそらす。
将司の動きが止まる。その反応に触れた瞬間、ふと気づいた。長い間付き合ってきたのに、私たちは、一度も普通の恋人同士のように触れ合ったことがなかった。
胸がぎゅっと締めつけられる。疑惑を確かめるため、こみ上げる吐き気を押し殺し、将司の唇へ自ら口づけを落とす。
温かく、かたい感触だ。何も見えない私は、ずっと彼からの温もりを求めていた。
だが唇が触れた瞬間、将司の体が強張り、私を突き放した。そのままゴミ箱にすがりつき、激しくえずき始める。
「俺が潔癖症なのも、結婚するまではそういうことをしたくないのも、知ってるだろ!急にキスなんてして、何のつもりだ?嫌がらせか!」
その言葉を、これまで何度も聞かされてきた。今になって、私は確信を得た。
結婚するまで大切な初めては取っておきたいという彼の言葉を、本気で信じていた。触れ合いを拒まれるたびに、彼を困らせてしまったと自分を責めていた。
けれど違う。彼に潔癖症などない。ただ私に対して、生理的に無理だけなのだ。
「『悪い女に狂わされた。どうしよう?あいつのせいで、俺の体はおかしくなっちまった』って、自分で投稿した動画の中で言ってたじゃない」
動画の中の言葉を、そのまま返す。すると将司の気配が、一瞬で変わった。息をのむ気配が、はっきりと伝わってくる。
「将司。もう、やめよう。私のことがそんなに嫌なら、別れよう」
嘘だけで塗り固められた結婚など、こちらから願い下げだ。
「何を言ってるんだ!
そ、そんな動画なんて投稿した覚えはないっ!何かの間違いだ……そう、ただ声が似てるだけの奴を、勝手に俺だと思い込んでるだけだろ!?」
慌てて取り繕う声を聞きながら、反論する気力すら湧かず、ただ黙って聞き流す。バッグを手に取り、家を出ようとする。だが、将司が大股で回り込み、行く手を阻んだ。
「怜、いい加減にしろ!
俺以外に、誰がお前みたいな目の見えない女を受け入れるんだ!
いいか、今ここを出て行ったら、もう後戻りはできないぞ!」
私は冷たく笑った。「望むところよ」
「お前!」
扉を開けた瞬間、誰かが勢いよく私に抱きついてきた。理穂だ。
「怜!こんな夜中に、どこへ行くの?
今日のリハーサルで、少し気になるところがあったから、二人と相談しようと思って来たの。
ドレスも、あのデザインはやっぱり好きじゃなくて。ブーケも、アジサイよりマーガレットに替えたほうが可愛いと思うんだけど……」
第4話
理穂の指が、私の首筋に触れる。
その指には、指輪がはめられている。さっき将司に腕をつかまれた時、私の肌にぶつかったものと同じ感触だ。同じデザインの指輪だと、すぐに分かった。
「怜、私の提案どうかな?どうして何も言ってくれないの?」
理穂は悪びれもせず、私の体を揺する。すると将司が優しい声で答える。
「ああ、理穂の好きにすればいい。怜だって気にしないよな?」
何か言おうとしても、言葉が喉につかえて出てこない。私がキク科の花粉にアレルギーがあることを、二人とも知っているはずだ。
「じゃあ私、用事があるからもう行くね」理穂がそう言ったあと、玄関のドアが閉まる音が響く。
けれど、家の中にはまだ二人の気配が残っている。押し合うような物音と、楽しげな声が聞こえる。
足を止めたのは、寝室の前だ。鍵がかかっている。それでも中から、二人がベッドの上ではしゃぐ音が聞こえてくる。
「将司、結婚したあとも、私たち、ずっとこうしていられるよね?
目の前で私たちに騙されているのに、何も気づかないなんて……たまらなくゾクゾクするわ」
「ああ……」
思わず、乾いた笑いがこぼれた。涙が、止まらない。バッグをつかみ、そのまま家を飛び出す。そして、両親に電話をかけた。
「お見合い相手の人と、今すぐ会えるようにしてほしいの……」
真夜中に面会を求めるなんて、普通なら失礼な話だ。それでも相手は、少しも嫌な様子を見せなかった。
大手医療グループを営む柊家の長男、柊修弥(ひいらぎ しゅうや)は、落ち着いた声で、私の目について話してくれる。
「僕たちが結婚するかどうかにかかわらず、怜さんが少しでも視力を取り戻せる可能性がないか、できる限り調べたいと思っている」
その声は、とても穏やかだ。その間も、スマホは何度も震え続ける。将司からのメッセージだ。
【目の見えない女が、こんな夜中にどこへ行くんだよ】
【本気で別れるつもりか?結婚もやめるって?まさか、家柄のいい男でも探しに行ったんじゃないだろうな】
【本当に金のことしか考えてないんだな。俺がこれまでどれだけお前のために尽くしてきたと思ってるんだ!】
10年以上愛し続けてきた人が、一番ひどい言葉で私を傷つける。思わず眉をひそめる。
「怜さん、大丈夫?」修弥が気遣わしげに声をかけてくれる。
「何か気になることがあるなら、遠慮なく言って。僕にできることなら……」
その言葉を遮るように、またスマホが震えた。
【3日後の結婚式は、絶対に中止するな。お前が着替えている時の写真を何枚も持ってるから、俺を怒らせないほうがいい】
【俺はただ、お前を愛しすぎているだけなんだ】
息が詰まりそうだ。スマホを握る手のひらに、冷たい汗がにじむ。
まさか将司が、ここまで卑劣なことをするとは思わなかった。私は、送信しようとしていた結婚式中止の連絡を静かに削除する。そして顔を上げ、修弥に向き直る。
「お願いがあるの。3日後、私と結婚してくれない?」
……
その翌日、将司は、私が結婚を受け入れる条件として、式の進行を一部変更することに同意した。
理穂は、私を心配し、結婚を祝福する内容のメッセージを送ってきた。
だがメッセージが届くたび、彼女の裏アカウントには新しい親密そうな動画が投稿されていた。
最初は怒りを覚えた。やがて、その怒りさえ薄れていく。
そして、ようやく結婚式当日を迎える。私は招待状の内容と新郎の氏名を変えた。清原家と柊家の結婚だ。今度は、両親も式に出席している。
入場直前、将司からメッセージが届く。
【お前の両親も来てる!】
【ほら、やっぱり二人とも俺を認めてくれたんじゃないか。もう二度と別れるなんて言うんじゃないぞ】
思わず、小さく笑う。スマホを置き、司会者の案内に従って壇上へ向かった。
大勢の人に見守られる中、修弥と指輪を交換する。そして彼が、そっと身をかがめる。唇に、やさしいぬくもりが触れた。
その瞬間、チャペルの重い扉が勢いよく開け放たれる。タキシード姿の将司が、理穂を連れて入ってくる。
「……何だよ、これ。なんで、もう始まってるんだ?」
独り言のようにつぶやいていた声が、途中で途切れる。何かに気づいたのか。将司は、その場で凍りついた。