第1章
私――小倉梨々香(おぐら りりか)は雲の城でいちばん有名な「尽くし系」だ。
風間朔(かざま さく)の後ろを追いかけること、丸10年。
いちばんひどいときなんて、彼に人前で「犬かよ」と罵られても、私は反射的に「ワンワン」と二度鳴いてみせた。
そして、ついに私は彼の隣に立つことができた。
最初は私なんて眼中になかった朔も、やがて呆れたように私を受け入れ、最後には私と結婚してくれた。
結婚式で私を見る朔の瞳には、小さな星が浮かんでいるようだった。
その夜、私は彼に無理やり指切りをさせた。
「梨々香は、10年間ずっと朔を追いかけてきた。だからこれからは――朔が梨々香を裏切っていいのも、10回まで。
10回使い切ったら、梨々香は絶対に、何の未練もなく朔のもとを去ること」
朔は笑いながら、私の小指に自分の小指を絡めた。
結婚して7年目、朔の初恋の相手――野原結奈(のはら ゆいな)が帰ってきた。
結奈が帰国したその日、朔は泥酔するまで酒を飲み、何度も何度も「結奈……」と彼女の名前を呼び続けている。
私は慌てた。そして朔の肩をつかみ、昔の「10回の約束」を何度も繰り返した。
「いい?もし私と結奈のどちらかを選ぶことになって、10回結奈を選んだら、その瞬間、私は朔と離婚するから」
1回目。朔は、たいして気にした様子もなかった。
「あと9回も残ってるだろ」
そして、2回目、3回目……
9回目の時、ようやく朔の顔から余裕が消えた。彼は私の手をつかみ、何度も確かめた。
「梨々香、俺と離婚しないよな?」
私は静かに彼を見つめた。そして最後には、うなずいた。
それを見て、朔はようやく安心した。
だから、彼は迷いなく、最後の10回目を使った。
そして私は振り返る間もなく、国の機密機関に入っていった。
門が閉ざされた瞬間、そこから先の私たちの人生は、もう別々のものになった。
第1話
機密任務への参加申請を提出し終えたところで、朔も家に帰ってきた。
今回は前よりも慎重だったのか、体に残っている香水の匂いはかなり薄い。ただ、男というのは本当にこういうところが抜けている。
シャツの襟元に、鮮やかな赤い口紅の跡が半分残っていることを、すっかり忘れている。
朔は優しげな笑みを浮かべ、スマホを手に、向こうにいる相手へボイスメッセージを送っている。
【今帰ったよ。いい子にして、ちゃんと言うこと聞いてよ】
ところが、振り返って私の姿を見た瞬間、朔の表情は冷たくなり、声からもさっきまでの温度が消える。
「まだ寝てなかったのか?」
私は答えず、テレビの音量を最大まで上げる。
高画質の画面には、十数人の記者に取り囲まれた私が映っている。真っ黒なマイクが、まるで私を飲み込もうとしているようだった。
「奥さん、昨日のニュースをご覧になりましたか?風間社長が、今売り出し中の女優・野原結奈さんと不倫しているという噂は本当ですか?」
「昨夜撮影された写真についてもお聞きします。風間社長と野原さんが駐車場でキスしている写真が出ていますが、何かコメントをいただけますか?」
……
昨日、朔と結奈がホテルへ一緒に出入りする動画が、ネットで大きな話題になった。
動画の中で、結奈は清楚な服装をして、一方の手には花束を持ち、もう一方の手は朔と指を絡めてしっかりつないでいた。
その姿は、誰が見ても仲睦まじい恋人同士だった。
けれど朔は、手をつなぐのが嫌いだったはずだ。
昔、私は人前で何度も彼に手を振りほどかれ、そのたびに眉をひそめながら言われた。
「風間家の奥さんなら、もう少し慎ましくしてくれ。人前で、みっともない真似をするな」
朔は花も嫌っていた。あんなものは一番安っぽい贈り物だ、と。
結婚して7年、私は花びら一枚すらもらったことがない。
それなのに結奈は、朔の腕にぶら下がるように甘え、薔薇の花が朔の顔に当たっても、彼は怒るどころか気にも留めない。
結婚指輪だってそうだった。私は5年間、何度頼んでも朔に指輪をつけてもらえなかった。
なのに動画の中では、大きな手と小さな手がしっかりと指を絡め合い、二人の薬指には、お揃いのペアリングがきらきらと輝いていた。
まるで、私の結婚生活を嘲笑うかのように。
私はようやく分かる。朔は、手をつなぐのが嫌いだったわけじゃない。花が嫌いだったわけでもない。ましてや、本当に指輪が嫌いだったわけでもない。
ただ――相手が、私だったから。私が彼に求めたから。
彼は、私を愛していない。
第2話
私は一晩中泣き続け、そしてようやく、いろんなことが分かった。
翌日、私はかつての恩師を訪ね、まだ発表していなかった研究成果と引き換えに、政府の機密機関へ入るための採用枠を手に入れる。
あとはその時が来るのを待つだけ。そうすれば私は、朔と二度と会うことはない。
ニュースがここまで流れたところで、朔の顔色もみるみる悪くなる。
険しい眉を寄せ、私に「10回の約束」のことを思い出させようとしたそのとき、テレビからこんな言葉が聞こえてくる。
「皆さん、ご心配いただいてありがとうございます。でも、旦那と野原さんは、ただの友人です」
画面の中の私はマイクを握り、目には強い光を宿していた。そこには、少しの無理をしている様子もない。
「どうか皆さん、これ以上、野原さんへの根も葉もない噂や誹謗中傷はおやめください。もし続くようであれば、我が風間グループが最後まで責任を追及します」
朔は呆然とする。信じられない、とでもいうように。
実は3週間前にも、同じようなことがあった。
朔が結奈を連れて海辺へ行き、二人で熱烈なキスをしているところを記者に撮られたのだ。
あのときの私は、慌てふためいていた。写真を見た瞬間、目を真っ赤にして、泣きながら朔のもとへ駆けつけ、本人に確かめた。
けれど朔が私に返したのは、たった一言だった。
「俺にはまだ4回残ってるだろ」
私は朔とは幼馴染で、10年間ずっと彼の後を追い続けてきた。
その10年間、私は海外留学の機会を捨て、自分が心から愛していた専門分野まで捨てた。
ただ、いつか朔が振り返って、私を見てくれる日を待つために。
私は、待ち続けた。そして、ようやくその日が来た。
願いどおり、私は朔と結婚した。
けれど人生は、ただ待っていれば必ず報われるものじゃない。
結婚して7年目。朔の初恋の結奈が、帰ってきた。
彼女が帰国したその日、朔は泥酔し、何度も「結奈……」と彼女の名前を呼び続けた。
私は、もう彼を愛し続けることができなくなった。
だから朔を引き止め、二人の間で一つの約束を決めた。
――私と結奈のどちらかを選ぶ場面で、朔が10回彼女を選んだら、そのとき私は彼と離婚する。
1回目。私の誕生日に、朔は結奈と買い物へ出かけた。
2回目。結婚記念日に、朔は結奈と恋人同士の記念写真を撮った。
3回目、4回目、5回目……
朔自身は、もう何回目なのか覚えていない。海辺で結奈とキスしたあの日が、9回目だった。
そして10回目が、今日。
だから今、朔が理解できないという目で私を見つめていても、私はただ笑って、彼の望むままに嘘をついた。
「大丈夫だよ、朔。まだ3回も残ってるから」
それが私の気のせいだったのかは分からない。
朔は、ふっと長く息を吐いたように見える。顔色も、すぐに元へ戻っていく。
今回は、急いで部屋へ戻って結奈とビデオ通話をすることもない。代わりに、ポケットから一本のピンクダイヤモンドのブレスレットを取り出す。
「プレゼントだ」
言葉は短い。けれど、その目は熱を帯びて私を見つめている。
まるで昔の私のように、驚いて喜び、飛び上がるのを待っているかのようだ。
けれど、朔は勘違いしている。
私は、このブレスレットを知っている。
パリのクリスティーズのオークションで、朔が結奈の帰国祝いとして贈った「愛の証」というネックレスの付属品だった。
「愛の証」は17カラットのネックレスで、その価値は11億円を超える。
一方、このピンクダイヤモンドのブレスレットは、そのネックレスを加工した際に残った端材で作られたもの。価値は、そのほんの一部にすぎない。
じゃあ、これもまた、朔が結奈を選んだ1回ってこと?
心の中でそう思った私は、そのまま口にも出してしまう。
朔の表情が固まる。ついさっきまで浮かんでいた優しげな表情が、一瞬にして消え失せる。
彼は私を睨みつけ、腹立たしげに背を向ける。そして、恥ずかしさと苛立ちの混じった声で、ただ一言だけ吐き捨てる。
「いちいち細かいんだな」
私は、確かに細かい。
だからこそ、父が不倫をして母を追い詰め、死へと追いやったうえ、愛人まで連れて母の葬儀の場で騒ぎを起こしたときも、私は母の写真を抱きしめ、死んでも手放そうとしなかった。
だからこそ、朔が父から母の最後の一枚の写真を奪い取り、それを私の手に渡してくれたあの日から、私は彼に一途になったのだ。
第3話
私は何でも細かい。だから、朔が私を愛していないと分かっていても……
それでも頑なに、彼の後を追い続けた10年と引き換えに、あの馬鹿げた「10回の約束」を手に入れようとしていた。
でも、もう終わる。私も、もう馬鹿な真似はしない。
涙を拭い、私はそのままソファに横になってスマホをいじり続ける。
ただ、画面が古いせいなのか、見ているうちに視界が何度もぼやけてしまう。
少し考えてから、私は体を起こし、もう一度恩師に電話をかける。
「先生、審査、もう少し早めてもらえませんか?私、もう待つのはちょっと……」
恩師は眉をひそめる。私がそんなことを言い出したのが、意外だったらしい。
「どうして急ぐんだ?朔さんと、ちゃんと別れを告げるつもりはないのか?
君はあの子を追いかけるために、国からの誘いを何度も断ったんだ。それどころか、自分の研究成果まで風間グループに無償で提供した。今になって何も言わずに去って、本当に後悔しないのか?」
私は目を伏せた。視線の先には、7年間、一人で愛し続けてきた結婚指輪がある。けれど、迷いは一切ない。
「後悔しません」
恩師は黙り込む。そして、ようやくそれ以上は何も言わなくなる。
しばらくしてから、はっきりと答えてくれる。
「審査は今夜中に通す。明後日の朝、迎えに行く」
その言葉が終わった瞬間、背後から、少し掠れた朔の声が聞こえる。
「誰が迎えに来るって?」
振り返ると、朔が紙袋を提げて立っている。その目には、困惑の色が浮かぶ。
私は電話を切り、何事もなかったように振り返る。
「何でもないよ。先生と、機密任務のことを少し話してただけ」
朔の顔色が変わる。ほとんど反射的に、私の目の前まで駆け寄ってくる。
「機密任務って何だ?これからもずっと俺のそばにいるって言っただろ?俺は、お前が行くなんて許さない」
私は二歩ほど後ずさり、適当に答える。
「ちょっと興味があって聞いてみただけ。別に、大したことじゃないよ」
それを聞いて、ようやく朔は落ち着きを取り戻す。そして、手にしていた紙袋を私へ差し出す。
少しだけ得意げな顔をしている。
「この前のブレスレットは数に入らない。別のものをもう一つ買ってきた」
その袋を開けた瞬間、私は息を止める。私が一番好きだったケーキ屋のものだ。
子供の頃、母に会いたくて寂しくなるたび、朔はいつもこの店へ走って、私のためにケーキを買ってきてくれた。
ケーキ職人が有名で、買いに行くたびに2時間も並ばなければならない。
それでも朔は、私を元気づけるためなら、雨の日も風の日も関係なかった。私が「食べたい」と一言言えば、必ず自分で店まで行って、列に並んでくれた。
ときには、そんな朔があまりにも疲れているのが可哀想で、私は目を赤くしながら尋ねたこともある。
「どうして、そこまで私に優しくしてくれるの?」
朔は眉をひそめ、まるで私にはどうしようもないと言いたげな顔をした。
「梨々香が泣き虫だからだろ。ほら、ケーキ食べたら、もう悲しむな」
昔のことを思い出して、鼻の奥がツンとする。
私は何でもないふりをして中の箱を開け、ケーキを一口、口へ運ぶ。
次の瞬間、私はその場で固まる。
メロン味のクリームだった。
私は、メロンアレルギーだ。
喉がみるみる腫れ上がり、呼吸まで苦しくなっていく。
私はソファに崩れ落ち、必死に手を伸ばして、朔に病院へ連れて行ってもらおうとする。
そのとき、タイミング悪く、結奈から電話がかかってくる。
「朔、家が水漏れしてるの。床がびしょびしょで……汚れるのが怖くて、私じゃ何もできない。お願い、早く来て……」
朔は一瞬固まる。けれど、すぐに心配そうな声で答える。
「分かった。待っててね。すぐ行くから」
私は愕然とする。苦しみながら、必死に朔の手をつかむ。
「先に……病院へ……私、メロンアレルギーなの……このままだと、死ぬ……」
「パシッ!」
朔は私の手を振り払う。整った顔立ちが、初めて他人のように冷たく見える。
「ふざけるなよ。アレルギーなんて、よくそんな嘘をつけるな。
結奈が困ってるんだ。俺は、行かなきゃいけない」
そう言いながら、朔は私を押しのけ、外へ駆け出していく。
玄関を出た瞬間、私は掠れた声で、必死に朔を呼び止める。
第4話
「朔。これって、あなたが結奈を選ぶ、9回目ってこと?」
私は朔を見つめる。赤い発疹は、もう顔にまで広がっている。
ここで朔が振り返れば、私が本当にアレルギーを起こしているだけで、嘘をついているわけではないと分かるはずだ。
けれど朔は、その場に立ち尽くしただけだ。垂れ下がった手を、ぎゅっと拳に握りしめる。
そしてとうとう、何かを決意したように、静かに口を開く。
「じゃあ、これが最後だ」
車のエンジン音が響き、屋敷には再び静寂が戻る。
私はとうとう耐えきれず、その場で意識を失う。
次に目を覚ましたとき、私は病院にいる。朔は今にも泣き出しそうなほど取り乱している。
「どうしてアレルギーのこと、ちゃんと言わなかったんだ?家政婦が気づいてくれなかったら……本当に死んでたんだぞ……」
「言ったよ」
私は彼の言葉を遮る。自分でも驚くほど、心は穏やかだ。
「アレルギーだって言った。死ぬって、ちゃんと言ったよ」
朔は言葉を失う。まるで今になって初めて、その意味を理解したように、目を逸らす。
「俺……お前がただ……」
そこまで言って、続きが出てこない。朔は自暴自棄になったように、私の手を握る。
まるで、その手を自分の体の中に埋め込んでしまいたいとでもいうように。
「もう二度としない。梨々香、俺、本当にもう二度としないから」
私は「うん」とだけ答える。
けれど、もう何とも思わない。
10回の約束は、とっくに終わっている。今起きていることなんて、私が彼のもとを去っていく途中の、小さな出来事にすぎない。
そんなことを知らない朔は、ただ頑なに私のベッドのそばに居続ける。
私に自分を見ていろと言わんばかりに、決して目を離させようとしない。
胸の中にある不安を埋めるように、これでもかというほど私を気遣おうとする。
結奈から電話がかかってくる、その瞬間までは。
今回は、朔も少しは学習したらしい。
彼は申し訳なさそうに私を一度見てから、そっとトイレに入っていく。
けれど、私はそれでも聞いてしまう。
結奈が私にも電話をかけてきているからだ。
「あなた、朔と約束したんでしょ?朔が私を10回選んだら、大人しく身を引くって。
よく聞いて。これで13回目。今夜は12時まで、朔には私と一緒にいてもらうから。これ以上恥をさらして、しつこく付きまとうのはやめたら?」
そうか。結奈ですら、これが13回目だと覚えていたんだ。
イヤホンの向こうから、声が聞こえてくる。
最初に口を開いたのは、朔だった。
「今度はどうした?梨々香が入院してるんだ。今日はそばにいてやらないと」
結奈は鼻を鳴らし、不満そうに甘える。
「私はまだ何も言ってないのに。昨日、どうして私のために買ってくれたケーキを梨々香に食べさせたの?
私に買ってくれるって言ってたじゃん。あの人なんかが食べるなんて、もったいないよ」
朔はため息をつき、慣れた様子で彼女を宥める。
「結奈、いい子だから。ケーキ1個くらい、また買ってやるよ」
「でも、2時間も並んでくれたんでしょ?私、朔が大変そうで心配だったんだから」
結奈はそれでもまだ不満そうだった。
朔は小さく笑い、甘い声で答える。
「こんなの、たいしたことじゃない。結奈のためなら、俺は何だってするよ」
「じゃあ、今夜は?映画を見に行くって約束したでしょ。もう梨々香のところに行くのは禁止だからね」
朔は黙り込み、何度もこちらを振り返る。
しばらくして、諦めたように言う。
「分かったよ。じゃあ、会社で急な用事があるって言って、適当に理由をつけて抜け出す」
結奈はくすっと笑い、それから意地の悪い声で尋ねる。
「そんな簡単な嘘、梨々香が信じると思う?」
朔は一瞬言葉に詰まる。けれど次の瞬間、確信に満ちた声で笑う。
「信じるよ。だって、あいつは俺のことが大好きだから。あいつは、簡単に騙せる」
電話が切れる。
私はベッドの上に座ったまま、長いこと呆然としている。
そうだったんだ。あのケーキは、私のためじゃなかったんだ。
2分後、朔が戻ってくる。申し訳なさそうな顔をして、私に告げる。
「梨々香、会社で急な仕事が入ったんだ。ちょっと戻らないといけない。今日はもう遅いから、ちゃんと寝ろよ」
私は頷く。案の定、何も聞かない。
ただ、朔が部屋を出ようとしたとき、私はふいに口を開く。
第5話
「朔、もし12時になっても帰ってこなかったら、あなたが10回目のチャンスを使ったってことにしてもいい?」
朔の足が止まる。私が何かに気づいたと思ったのか、顔が一瞬で真っ青になる。
けれど幸い、私はそれ以上何も言わず、平然と横になって眠ったふりをする。
朔は唇をきゅっと結び、振り返ると、私を引き寄せて何度も確かめる。
「梨々香、俺と離婚しないよな?俺と離れるなんて、できないよな?」
私は一瞬固まる。それから、ぼんやりと頷く。
「うん」
どうせ朔には何度も騙されてきたんだ。私だって、一度くらい彼を騙してもいい。
朔はほっとしたように、私の頭を撫でると、大股で部屋を出ていく。
12時まで、あと3時間。
私は高いお金を払って配達代行を頼み、ケーキを一つ買ってきてもらう。
朔の秘書の小野が、SNSに投稿している。
まだ残業中で、会社にはもう自分一人しか残っていないと、愚痴をこぼしている。
朔から、私にもメッセージが届く。
【今、会社に着いた。すぐ帰るから】
12時まで、あと2時間。
アルバムを整理していると、私と朔の結婚式の写真が一枚出てきた。
写真の中で、ハンサムな男は、いつになく真面目な顔をしている。
けれど、よく見ると耳の先まで真っ赤になっていた。
ふと心が動いて、私はSNSに投稿する。
【気づけば、私たちも7年になった】
朔から、すぐに返信が来る。
【7年以上だろ】
それと同時に、夜景の写真も一枚送られてくる。
【今夜は月がきれいだ。早く帰って梨々香に会いたいなあ】
私は返信しない。
なぜなら、写真に写っている高層ビルの背景が、会社の近くではないと知っているから。
そこは市内中心部、この街で一番ロマンチックだと言われるラブホテルが集まる場所だ。
結奈も我慢できなくなったのか、私に何枚か写真を送ってくる。
【ねえ、今夜はどんなことをすると思う?】
写真の中では、白い鎖骨にくっきりと残ったキスマークが、やけに目につく。
12時まで、あと1時間。
私は病院のベッドに横になりながら、かつて朔のために書いたラブレターを繰り返し再生し、配達してもらったケーキを一口、また一口と頬張っている。
なのに、どういうわけか。食べれば食べるほど、ケーキがしょっぱくなっていく。
もう、これから先は好きになることなんてないだろう。そう思った。
12時まで、あと30分。
朔からの返信が途絶える。
私も、それ以上邪魔をすることはせず、着替えて普段着に戻す。
12時まで、あと1分。
私は最後にもう一度、自分の姿を確認してから、振り返って病室のドアを開ける。
すると突然、病室のドアがノックされる。
私は一瞬立ち止まり、慌ててドアを開ける。
「こんばんは。梨々香様でいらっしゃいますか?こちら、ご主人様からお預かりしたお品物です。お受け取りのサインをお願いいたします」
スタッフはジュエリーボックスを抱え、丁寧な笑顔を浮かべている。
そのタイミングで、朔からのメッセージも画面に表示される。
【ごめん。仕事が多すぎて、今夜は会社に泊まることになった】
【10回の約束は、今回はなしな。帰ったら、梨々香が一番好きなケーキを買って帰る。今度は絶対に間違えないから】
私は返信しようとしたとき、ふとドア枠に体がぶつかる。
垂れ下がった指先から、結婚指輪がするりと外れ、床を転がってテーブルの下へ入っていく。
スタッフが驚いて、慌てて声をかけてくる。
「よろしければ拾いましょうか?」
私は首を横に振り、スマホを手に取って返信する。
【ケーキは、もう買ってこなくていいよ。10回のチャンスは全部使い切った】
【私たち、離婚しよう】
次の瞬間、何百件ものメッセージが一気に私のスマホへ押し寄せる。