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夫が私を最も憎んでいた時に、私は死んだ
私・桐原美玖(きりはら みく)は、夫・桐原朔也(きりはら さくや)に最も憎まれていた時に死んだ。 彼の冷たい態度に耐え切れず、自ら命を絶ったのだ。 葬儀場で、夫は私の遺骨が入った骨壺を手にすると、珍しくわずかに笑った。 「こんな汚れた人間、まともに弔ってやる必要なんてありませんから」 次の瞬間、骨壺が地面に叩き落とされ、私の遺骨が辺り一面に散らばった。 彼はずっと、かつて彼が想いを寄せていた女性を死なせたのは私だと思っていた。 だから彼は長い年月をかけて私に近づき、私を愛しているふりをして、慎重にすべてを奪うことにしたらしい。 念願の復讐を果たした夫は、私の遺骨を踏みつけ、そのまま立ち去った。 ところがそれから間もなく、彼は葬儀場で膝をつき、私の遺骨を返してくれと懇願することになるのだった。
チャプター (1)
第1章
私・桐原美玖(きりはら みく)は、夫・桐原朔也(きりはら さくや)に最も憎まれていた時に死んだ。
彼の冷たい態度に耐え切れず、自ら命を絶ったのだ。
葬儀場で、夫は私の遺骨が入った骨壺を手にすると、珍しくわずかに笑った。
「こんな汚れた人間、まともに弔ってやる必要なんてありませんから」
次の瞬間、骨壺が地面に叩き落とされ、私の遺骨が辺り一面に散らばった。
彼はずっと、かつて彼が想いを寄せていた女性を死なせたのは私だと思っていた。
だから彼は長い年月をかけて私に近づき、私を愛しているふりをして、慎重にすべてを奪うことにしたらしい。
念願の復讐を果たした夫は、私の遺骨を踏みつけ、そのまま立ち去った。
ところがそれから間もなく、彼は葬儀場で膝をつき、私の遺骨を返してくれと懇願することになるのだった。
第1話
朔也が私を最も憎んでいた時に、私は死んだ。
数え切れないほどの睡眠薬を飲み込んだときも、私はまだ考えていた――今夜、朔也は帰ってくるだろうか?
意識が完全に闇へ沈む直前まで、私はスマホの画面を見つめていた。
着信もなければ、メッセージもない。残っているのは、昨日私が送った13件の未読メッセージだけ。
彼は今ごろ、何をしているのだろう?
会議かもしれないし、誰かと会食しているのかもしれない。それとも宗方風花(むなかた ふうか)と一緒に撮った写真でも眺めながら、彼女を思い出しているのだろうか?
どちらにせよ……私のことを考えているはずがない。
私が死んでから1週間経っても、朔也は帰ってこなかった。
そして7日目、私の遺体は腐敗し始めていた。
「死者、桐原美玖。32歳。現時点では自殺とみられます」
警察が悪臭を放った私の遺体にかけられた毛布をめくった頃、朔也は会議室で16億円の契約書にサインしていた。
彼のスマホが数度震え、秘書の吉川智樹(よしかわ ともき)が小声で知らせる。「社長、奥様の件で警察からお電話です」
朔也はペンを止めることすらなかった。「放っておけ」
そして、そのままさらに1週間が過ぎた。
朔也がようやく姿を現したのは、私が火葬され、骨になった日。
黒い革靴が大理石の床を鳴らす。カツ、カツ、と響く足音は、まるで私の弔いの鐘のようだった。
すでに魂だけの存在になったというのに、私は思わず朔也のそばへ寄った。相変わらず、頭からつま先まで隙なく整っている。
その顔も冷静で、どこまでも淡々としていて、私が死んだことを悲しんでいるようには見えなかった。
よかった。
私は昔から、朔也がつらそうにするのを見るのが一番嫌だった。だから、これなら少し安心できる。
「桐原様。こちらが奥様のご遺骨です」
葬儀場のスタッフが、私のすべてが収められた骨壺を丁寧に差し出した。
その隙に私は近づいて、朔也の頬に触れようとしたけれど、魂になった私の手は、その顔をすり抜けてしまう。そして、朔也が突然身震いした。
驚いて、私は慌てて手を引っ込めた。
次の瞬間、朔也は冷たく笑った。彼の爪が骨壺の表面を擦り、耳障りな音を立てる。
「奥様?あいつが俺の妻だって?」
朔也が私を好きではないことくらい、ずっと前から知っていた。
それでも長い間そばにいて、最後は死んでまで妻だと認めてもらえないのは、やっぱり少しつらい。
朔也は、彼がずっと想いを寄せていた風花を死なせたのは私だと思っている。
高校時代のある夜、風花は学校裏の路地で、酒に酔った不良たちに囲まれ、12か所も刺された。
そして、最後の一撃で大動脈を傷つけられ、命を落としたのだった。
知らせを受けて駆けつけた朔也が目にしたのは、路地から警察に連れ出される、両手を血まみれにした私。
ただ、それだけだった。それだけの行き違いで、朔也は15年間、私を憎み続けた。
その15年の間に、彼は私へ近づき、私を口説き、愛しているふりをした。
結婚してからは、私や私の家族を利用して、自分の足場を固めていった。
そして誰にも逆らわれないほどの力を手にしたとき、彼はようやく芝居をやめたのだ。
かつて私に愛していると言った人が、最後には誰より深く私を傷つける刃になった。
それでも、何より悲しかったのは、真実を知ったあとでさえ、私自身がまだ朔也を愛していたこと……
「桐原様、ご遺骨はこちらで墓地までお運びしましょうか?」
スタッフの声で、私も朔也も意識を引き戻された。
朔也は無表情で、何を考えているのか、まるで読み取れない。けれど次の瞬間、彼の手が骨壺を横から払い落とした。
床に叩きつけられた音は、思っていたよりも乾いていた。
私は呆然と、辺り一面に散らばった自分の遺骨を見つめる。
朔也が私を憎んでいることなんて、嫌というほど分かっていた。それでも実際に目の当たりにすると、息ができなくなるほど苦しい。
幸い、魂になった私は涙を流せないから、少なくとも、惨めに泣く自分を見なくて済んだ。
「結構です。こんな汚れた人間、まともに弔ってやる必要なんてありませんから。
お手数をおかけいたしますが、後で掃くなり、下水道に流すなりしてください」
そう言いながら、彼は靴先で遺骨を蹴る。すると、白い粉がさらに舞い、葬儀場のスタッフが驚いて数歩後ずさった。
その光景を見て、ふと結婚3周年の日を思い出した。あの日も朔也は、私が6時間かけて煮込んだ料理を同じように払い落とした。
器が割れた音まで、今とそっくりだ。
熱い煮汁が私の手の甲にかかったとき、朔也は何と言ったんだっけ?
「美玖、お前は風花の足元にも及ばない」
今は、私の遺骨が朔也の靴底に付着し、私の魂もそのまま一緒に外へ付いていく。
葬儀場のガラス扉に、冷たく迷いのない朔也の顔が映っていた。
智樹が小走りで追いつく。
「社長、15時半からのお客様との打ち合わせですが……」
「予定通りだ」
振り返ることなく、朔也はマイバッハへ乗り込み、靴底についていた私の遺骨が、ぱらぱらと革張りのシートへ落ちた。
車が走り出した瞬間、私はとうとう耐えきれず叫んだ。
「宗方さんが死んだのは、私のせいじゃない!」
もちろん、その声が誰かに届くことはなかった。
第2話
葬儀場で朔也に会ってから、私の魂はなぜか彼のそばから離れられなくなっていて、朔也を中心に、ごく限られた範囲しか動けない。
仕方なく、仕事の打ち合わせへ向かう彼についていくことになったのだが、車が目的地へ向かう途中、朔也が突然、智樹に告げた。
「会議はキャンセル。今日の午後の予定も全部断って、今すぐ家に戻る」
智樹は驚いたものの、理由を尋ねることなく、すぐに対応する。
「社長、すべて明日の14時以降に変更しました。これからエラン・ヒルズへ戻られますか?」
朔也は流れていく街並みをしばらく眺め、淡々と答えた。
「桜葉台へ向かってくれ」
私は一瞬、耳を疑った。
桜葉台……そこには、私たちの家があり、私が死んだ場所でもある。
けれど朔也は、今日までの1か月間、一度もそこに帰っていなかった。
……
玄関を開けた瞬間、朔也の眉間に深い皺が寄った。
まだ完全には消えていない腐敗臭が一気に流れ出し、鼻を覆っても隠しきれない苛立ちが顔に浮かぶ。
私はその後ろに漂いながら、朔也が玄関へ足を踏み入れるのを見ていた。
朔也はひどく面倒そうに家事代行サービスへ電話をかけた。
ほどなくして、何人ものスタッフがやってきて、家中の片づけを始めた。
リビングのローテーブルには、私が飲み残した水が半分ほど残っていて、その隣には、空になった睡眠薬の容器。
ソファに置かれた毛布はぐしゃぐしゃで、警察が遺体を運び出したときについた汚れも残っている。
朔也は見向きもせず、その横を通り過ぎてキッチンへ向かった。
後ろからついてきたスタッフが、小声で呟く。
「キッチンのものまで全部傷んでる……ずっとこのままだったのね」
明かりがついた瞬間、私は思わず動きを止めた。
コンロの上には、蓋をしたままの土鍋が置かれていた。隣の皿には、すっかり冷めた魚の煮つけ。煮汁には白く脂が固まっている。
「こちらも全部、処分してしまってよろしいですか?」スタッフがコンロを指さした。
朔也は「ああ」と短く答え、何気なく土鍋の蓋を開けた。
その瞬間、濃厚なきのこの香りに、腐った臭いが混じって広がる。
それは私が4時間かけて作った、松茸と鶏肉の煮炊きものだった。
朔也の動きが止まった。
「今日は何日ですか?」
突然聞かれ、スタッフは戸惑いながらもスマホを確認する。
「6月7日です」
朔也の指先が、わずかに震えていた。きっと思い出したのだろう。
私が死んだ5月20日は、私たちの結婚記念日だった。
あの日、私は朝から準備をしていた。買い出しをして、料理を並べ、結婚式のときに使ったキャンドルまで引っ張り出してきた。
けれど午前3時になっても、朔也からは一通の連絡もなかった。
耐えきれなくなって、私は智樹にメッセージを送った。
【朔也は今夜、帰ってこられそうですか?】
智樹から返信が来たのは30分後だった。【社長は墓地へ行かれました】
墓地。
風花が眠っている場所。
私はスマホの画面を見つめながら、急に何もかもが馬鹿らしくなった。
何年も、私は馬鹿みたいに朔也の芝居に付き合ってきた。
嫌われていると分かっていたのに、それでもいつか振り向いてくれるんじゃないかと期待していた。
なのに結局、結婚記念日でさえ、朔也が選ぶのは私ではなかった。
「これ……全部美玖が作ったのか?」突然、朔也が掠れた声で呟いた。
私はそばへ寄って、その顔を覗き込もうとしたけれど、朔也は俯いていて、前髪に隠れた表情までは見えなかった。
スタッフが食器を片づけながら言った。
「このお魚もすっかり傷んじゃって……奥様、ずいぶん頑張って用意されたんですね。こんなにたくさん……」
「捨てください」朔也が遮った。「食器も全部。何も残さなくていいですから」
そう言うと、彼は一人で寝室へ入っていく。静かな朔也の姿が、私は昔から好きだった。
彼の視線を追うと、ベッド脇にはまだ私たちの結婚写真が飾られていた。
写真の中の彼は、優しく幸せそうに微笑んでいて、まるで本当に私を愛しているかのようだった。
今思えば、なんて見事な演技だったのだろう。
「美玖」
朔也が突然、私の名前を呼んだ。
私は勢いよく振り返った。もしかして、ようやく私が見えるようになったのか?
だが彼は窓の外を見つめたまま、消え入りそうな声で呟いただけだった。
「死ぬ日まで、わざわざあの日を選んだのか?」
私はその場に立ち尽くし、ふっと吹き出してしまった。
ええ、そうよ。わざとやったの。
毎年、結婚記念日が来るたびに、朔也が思い出せばいいと思った。
この日、彼の妻が死んだのだと。
そして朔也は、その最期にさえ間に合わなかったことを……
第3話
朔也は筋金入りの仕事人間で、昔から家にいてもすぐに会社へ戻って仕事をしようとする人だった。
それとも単に、私のいる家にいたくなかっただけなのかもしれない。
でもまさか、私が死んだ後でさえ、あの家にいられないとは思わなかった。
会社に戻るなり、朔也は山積みの書類に埋もれるように仕事を始めた。
表情は見えなかったが、時折その肩が小さく震えている。
私が死んで、せいせいしたとでも思っているのだろうか。
やることもない私は、静かにそばに漂いながら、仕事に集中する朔也の横顔を眺めていた。
朔也が真実を隠さなくなってから、こんなふうに穏やかな時間を過ごすことはなくなった。
ずっと昔、結婚したばかりの頃には、こんな時間もあった。
私は朔也を抱き枕代わりにするのが好きで、冬になると手も足も絡めてぴったりとくっついていた。
私たちは抱き合っていながらも、それぞれ別のことをしていた。
抱き合ったまま、私はスマホをいじり、朔也は本を読む。あるいは二人で寄り添って映画を見たりもした。
思えば、そんな些細な思い出だけを支えに、私は何年も何年も朔也を愛し続けていたのだ。
「社長、奥様のご両親がお見えで、奥様のご遺骨を引き取りたいと、下でお待ちになっています」
ノックして入ってきた智樹が、丁寧に一礼する。
朔也はペンを持つ手を一瞬止めたものの、顔も上げずに答えた。
「わかった。待たせておけ」
だが、彼は日が落ち始めても私の両親に会いに行こうとはしなかった。
その間、智樹が何度か確認に来たが、朔也は手が離せないから待たせておけと繰り返すばかり。
もう仕事なんて残っていないのに。
私は朔也をじっと見つめながら、急に目の前の男がひどく遠い人に思えた。
母が腰を痛めたとき、わざわざ人に頼んで海外の湿布を取り寄せてくれた人が、今は私の両親を会社のロビーで5時間も待たせている。
気が気ではないまま辺りをうろついていると、すっかり日が暮れた頃になって、ようやく朔也が秘書に両親を通すよう指示した。
部屋に入ってきた母は、朔也の顔を見るなり涙をこぼした。
「朔也さん、葬儀場の方から、美玖の遺骨はあなたが持って帰ったって聞いて……私たち、美玖を家に連れて帰りたいの……」
「ここにはありません」
朔也が冷たく遮ると、母は呆然とした。
「ここにないって?」
「ええ。葬儀場の地面に撒き散らしましたから」
母の顔から一気に血の気が引いた。唇を何度も震わせ、ようやく絞り出すように声を出す。
「朔也さん……嘘でしょう?どうして、そんなこと……」
「今さらあなたたちに嘘をついて、何になるんですか?」朔也は書類を閉じ、冷たく笑った。「あんな汚らわしいもの、わざわざ持ち帰るわけないじゃないですか」
「朔也さん!」
父が勢いよく立ち上がった。だが途端にめまいでよろめき、母につかまってどうにか踏みとどまる。
「美玖はお前に尽くしてきたし、私たちだって、お前をないがしろにしたことなんて一度もない。それなのに、どうしてそこまで酷いことができるんだ?」
「俺が酷い?では、風花を殺したあいつは何だって言うんですか?」
ドン、と書類の束が机に叩きつけられた。
あの事件の話になると、朔也はいつも怒りを抑えられなくなる。
「俺によくしてやったなんて言わないでください。そんなのは当然ですよね?だって、あなたたち家族は俺に……それ以上に風花に取り返しのつかないことをしたんだから!」
母は慌てて何度も首を横に振った。「違うのよ、朔也さん!美玖はあの時、助けに行ったの!警察だって言ってたじゃない……」
「もういいです!」朔也がコーヒーカップを床へ叩きつけた。「15年も同じ嘘をつき続けて、よく飽きませんね。
はっきり言ってあげますね。美玖が死んだのは自業自得です。あいつは死んで当然だった!」
母がよろめきながら数歩後ずさるのを見て、私は胸が締めつけられた。
あの日、路地は暗かったから、朔也が見たのは、両手を血まみれにして警察に連れていかれる私の姿だけ。
私が必死になって、血だまりの中から風花を助け出そうとしていたことを、朔也は知らない。
母は震える手でバッグからUSBメモリを取り出した。
「違うのよ、朔也さん。これを見て。美玖の遺品なの。ここに……」
「帰ってもらえますか?これ以上俺を騙せると思わないでください!」
朔也は母の手から容赦なくUSBメモリを払い落とすと、そのまま内線電話を取る。
「警備員!二人を追い出せ!」
指示を受けた警備員がすぐに入ってきて、両親を連れ出そうとした。
私は必死に止めようとしたけれど、伸ばした手は何度も警備員の体をすり抜けてしまう。
「朔也、どうしてこんな酷いことができるの?!」
結局、私は両親がエレベーターへ押し込まれていくのを、ただ見ていることしかできなかった。
警備員に押された拍子に、母が私の骨を入れようと持ってきていた空の骨壺が床へ落ち、乾いた音を立てた。
朔也は腰をかがめてそれを拾うと、眉をひそめたままゴミ箱へ放り込む。
「汚らわしい。揃いも揃って、本当に汚らわしい」
第4話
全員がいなくなると、社長室は不気味なほど静まり返った。
大きな窓の向こうには、どこまでも暗い夜空が広がっている。朔也は黄ばんだ1枚の写真を手にしたまま、もう20分もそんな外をじっと眺め続けていた。
写真の中では、制服姿の風花が朔也に向かって笑い、木漏れ日がその顔に細かな光を落としている。
「風花……」
朔也は写真の中の風花の顔を指先でそっとなぞった。その声は、まるで夢から覚めてしまうことを恐れているかのように小さかった。
私は朔也の後ろに漂いながら、彼が引き出しの奥から色褪せた青い封筒を取り出すのを見ていた。
それは、風花が最後に朔也へ書いたラブレターで、便箋は年月を経て、今にも崩れそうなほど傷んでいる。
「風花。今日で、君がいなくなって15年と3か月だ。美玖もそっちへ行ったけど……もう会ったか?」
胸が強く痛んだ。けれど私には、顔を両手で覆う朔也を見ていることしかできない。
その肩は小さく震えていた。それでも顔を上げたときには、いつもの隙のない表情に戻っている。
ただ、赤くなった目元だけが、さっきまで泣いていたことを物語っていた。
突然、朔也が車の鍵をつかんで立ち上がった。その勢いでコーヒーカップが倒れ、茶色い液体が書類の上へ広がっていく。
茶色い液体が書類に染み広がる様子は、まるで、あの日の路地に広がっていた血のようだった。
物音を聞きつけた智樹が、不安そうに顔を覗かせる。「社長?」
「明日の会議は全部キャンセルしてくれ。墓へ行く」
智樹は窓の外に目をやった。「今からですか?」
「ああ、今から」
エレベーターを待つ間、朔也は無意識に左手の薬指を何度も撫でていた。
そこには本来、私たちの結婚指輪があるはずだったのだが、今はもう、うっすらと跡が残っているだけ。
それでも、何の痕跡も残せなかった私よりはましなのかもしれない。
風花の墓は他県にあり、朔也は墓参りのたびに丸2日も予定を空けていた。
向かう途中で雨が降り始めた。
濡れた高速道路を朔也の車が速度を上げて走るたび、私は気が気ではなかった。
幸い、翌朝には無事に到着したし、彼は途中で風花に供える花を買うことも忘れなかった。
雨粒が風花の墓石を叩き、小さな飛沫を上げている。
白いバラの花束を抱えて近づいた朔也が、不意に足を止めた。
墓前にはすでに、黒い傘を差した女性が立っていて、ちょうど、ひまわりの花束を供えているところだったのだ。
「すみません。どちら様ですか?」
振り返った女性は、かなりやつれた顔をしていた。
「もしかして……桐原さんですか?」
朔也がわずかに眉をひそめる。「そうですが、あなたは?」
「矢野慶(やの けい)の母です」女性は震える声で言った。「うちの息子は……」
「矢野慶?」朔也が言葉を遮った。「高校を中退した、あの?」
女性の頬を、涙が雨と一緒に流れ落ちていく。
「はい。あの子、刑務所を出てすぐに交通事故で亡くなりました。でも、ずっと申し訳なくて……それで今でも、ときどきこうしてお墓参りに来ているんです」
「刑務所を出た?」朔也はその言葉を聞き逃さなかった。「どういうことですか?」
慶の母親は戸惑ったように朔也を見つめた。
「15年前の、あの事件です。息子と、当時一緒にいた子たちが、この女の子を死なせてしまって……」
朔也の目に浮かんだ驚きを見て、女性は不思議そうに尋ねた。
「ご存じなかったんですか?」
知らなかったはずがない。朔也はただ、信じようとしなかっただけなのだ。
だって、私が何度も説明したのだから。それでも朔也は、すべて私の言い逃れだと思い込み、自分を騙すための嘘だと決めつけた。
私を愛していなかったから、私の言葉を信じることもなかった。
「そんなはずない……」朔也の声は震えていた。頬を伝っているものが雨なのか涙なのか、もう分からない。
「俺は見たんです。美玖が両手を血まみれにして、警察に連れていかれるところを……」
「その子は助けようとしたんですよ!あの夜、その子は一人で路地に飛び込んで、この子を助けようとした。それに警察へ通報したのも、その子だったんです。
でも現場には大勢いたから、警察も誰が通報したのかすぐには分からなくて、その場にいた人たちをまとめて連れていって事情を聞いたんです」
そう、私は最後にパトカーへ乗せられた。そしてあの事件の現場で、朔也が目にした唯一の人間が私だった。
世の中は、何もかもが白か黒かではっきり分かれているわけではない。けれど人は、真実よりも刺激的で目を引く部分にばかり注目する。
本当は何があったのかまで、わざわざ確かめようとする人はほとんどいない。
その結果、私が殺人事件の容疑者として警察に連れていかれたという話だけが広まり、人を助けようとしていたことは誰にも知られなかった。
やがて噂はさらに歪み、私は人を殺したのに、家の力を使って罪を逃れたことにされていた。
周囲の誰もが私から離れていく中、唯一手を差し伸べ、友達になってくれたのが朔也だった。
あのときは、それが何よりも嬉しかったのだが、私が信じたその優しさこそ、私の人生を狂わせた最大の罠でしかなかった。
すべてを聞き終えた朔也は、よろめくように数歩後ずさり、腕に抱えていた白いバラが、泥水の中へ落ちる。
唇を震わせた朔也は、突然身を翻して走り出した。
「USBメモリ……あのUSBメモリだ……」
駐車場へ向かう足取りは、何度ももつれそうになる。
朔也が会社へ戻った頃には、シャツまでびしょ濡れになっていた。
朔也は無様に地面に膝をつき、辺りを必死に探し回った。
やがて見つけたUSBメモリを震える手でパソコンに差し込むと、画面に粗い防犯カメラの映像が映し出された。
そこに映ったのは、15年前の雨の夜、必死に通報しながら、血まみれの風花を連れ出そうとする私の姿。
駆けつけた警察によって、私も一緒にパトカーへと誘導されるところで映像は止まった。
そして、赤く光るパトランプの光の中、ずぶ濡れになりながら悲痛な眼差しでその光景を見つめる少年の姿も映っていた。
その少年こそ、朔也だった。
第5話
朔也の指は震え、キーボードのスペースキーすらまともに押せなくなっていた。
「そんな……あり得ない……」
勢いよくUSBメモリを抜き、もう一度差し込む。まるで、そうすれば今度こそ、違う映像が流れるとでも思っているように。
社長室の大きな窓には、激しい雨が叩きつけている。
突然、朔也が立ち上がり、椅子が床を擦って、耳障りな音を立てた。
スマホをつかむと、すぐさま電話をかけた。「井上刑事、15年前に第三高校の裏路地で起きた傷害事件の記録を全部確認したいんです!今すぐお願いします!」
井上刑事が資料を持ってオフィスへやって来たとき、朔也はデスクの下でうずくまっていた。
シルクのシャツは見る影もなく皺だらけで、いつもの傲然とした面影はどこにもない。
「桐原さん、ご希望の資料です」
井上刑事はその姿に一瞬戸惑ったものの、すぐに古びた数枚の写真を取り出した。
「こちらが当時の現場写真です。路地が暗かったこともあって、周囲にいた人たちは桐原美玖さんが犯人だと思い込んでいました。でも、実際は……」
写真には、私の制服の背中が激しく引っ張られ、乱れている様子がはっきり残っていた。一方、風花の刺し傷はすべて正面から受けたものだった。
そして最後の調書にも、私は事件に関与した犯人ではなく、風花を助けようとして警察へ通報した人間だったと、一つひとつ明確に記録されている。
朔也には、真実を知る機会が何度もあったのに、それでも憎しみに囚われ、何一つ見ようとしなかった。
私と向き合おうともせず、心にはいつも風花しかいなかった。だから私が何を言っても、朔也には言い訳にしか聞こえなかったのだろう。
朔也の唇が震えていた。
15年間抱き続けてきた憎しみが一気に崩れ落ち、その下から残酷な真実だけが姿を現した。
「美玖……」
雨に洗い流される血の跡のように、過去の記憶が少しずつ鮮明になっていく。
私もふと、結婚して3年目のことを思い出した。朔也が熱を出した夜、私は一晩中ベッドのそばで看病していたのだが、朔也は朦朧としたまま風花の写真を見つめ、「風花がいてくれたらよかったのに」と呟いた。
目に涙を浮かべながら部屋を出ていったあの日の私と、15年前、路地から警察に連れていかれた私の後ろ姿が、今になって朔也の中でぴたりと重なる。
真実を知った朔也は、何かに取り憑かれたようにすべての仕事をキャンセルし、激しい雨の中を車で飛び出した。
向かった先は、私の実家。
朔也は泥水でズボンの裾が汚れるのも構わず、よろめきながらインターホンを何度も鳴らした。
「お義母さん!開けてください、お義母さん!本当に、すみませんでした……」
「朔也さん?」
ドアを開けた母の手には涙で濡れたティッシュが握られ、その目は赤く腫れ上がっていた。
朔也がその場で玄関の床に膝をつき、ドスンと鈍い音が響く。
朔也は震える手で母の部屋着の裾をつかんだ。
「お義母さん……ごめんなさい。全部……分かりました……」
物音を聞きつけた父も出てきたのだが、その腕には、私の遺影が抱かれていた。
朔也の姿を見るなり、父の手が大きく震えた。
「何しに来た!出ていけ、ここはお前のくる場所じゃない!」
父は箒をつかみ、朔也を外へ追い出そうとした。それでも、抵抗することもなく、ただ泣き続けていた朔也。涙も雨も混ざり合い、頬を伝っていく。
「お義父さん、俺が間違っていました……本当にすみませんでした……」
「間違ってた?」父は突然、笑った。そしてリビングの引き出しから書類の束を取り出し、朔也の前へ叩きつける。「これを見ろ!美玖が重度のうつ病だと診断されたときの診断書だ!あの子が今までどれだけ薬を飲んできたと思ってる!」
書類が床一面に散らばった。
朔也は這うように近づき、一番上の紙を拾った。それは、半年前のカウンセリング記録で、そこには、私の症状がすでに深刻な状態にまで進んでいることが記されていた。
「美玖はずっと前から死のうとしてたんだ」父はしゃがみ込み、記録の日付を指で叩いた。
「去年のお前の誕生日にも、睡眠薬を瓶の半分ほど飲んだ。それでも、お前が家に帰って一緒に食事をするって言ったから、あの子は自分で喉に指を突っ込んで全部吐き出した。なのに結局、お前は帰ってこなかった!」
過去が走馬灯のように蘇り、魂の私ですら何故だか痛みを感じた。
朔也は爪が食い込むほど強く手を握りしめていて、掌から流れた血が、診断書の上へぽたりと落ちる。
あの日のことを、朔也も思い出していた。その時の自分は、急に思い立って海外へ飛び、インスタには友人たちとシャンパンを飲んでいる写真を載せていた。
父は怒りに任せてクッションをつかみ、朔也へ投げつけた。「美玖は死ぬ直前までお前のことを庇ってたんだぞ!俺たちに『朔也を責めないで。わざとじゃないから』ってメッセージまで送ってきたくらいにな!」
朔也の口から、獣のような嗚咽が漏れた。そのまま床にうずくまり、全身を震わせる。
朔也は最後に残っていた不在着信を思い出した。あの時、風花の墓参りをしていた自分は、画面を見て迷わず着信音を切ってしまった。
そしてその電話が、最後の別れになってしまった。
「出ていけ!美玖の遺骨にあんなことまでしておいて、今さら何を泣いてるんだ!」
父が朔也の腕をつかみ、外へ引きずり出した。
扉の外へ押し出されても、朔也は必死にドア枠にしがみついていた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、何度も懇願する。
「お義父さん、お義母さん……本当にごめんなさい……」
けれど無情にも、扉は目の前で勢いよく閉ざされた。
激しい雨の中、朔也は力なく地面に座り込んだ。
震える手でスマホのロックを解除し、着信拒否の履歴から、ブロックしていた私の番号を探し出す。
そこには、私が最後に送ったメッセージが残っていた。
【朔也、今日は結婚記念日だね。もし……これが最後の記念日になっても、私がずっと朔也を愛してることだけは忘れないで】