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余命一か月、娘のために元夫へ戻った
二人目を妊娠して7か月目。私――高梨澄花(たかなし すみか)は、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)が幼なじみの倉田芹香(くらた せりか)と、リビングのソファで裸のまま絡み合っているところを目撃した。 早産を経て、私は迷わず離婚した。 日当たりの悪い古いワンルームを借り、飲食店で皿を洗いながら、娘の花音(かのん)を3歳まで育てた。 末期の胃がんだと告げられた日、圭吾はまた家の前で待ち伏せし、戻ってきてほしいと懇願した。 「理玖が、ママに会いたいって泣いてる。これだけ頼んでるんだ。もう一度、俺と一緒に暮らしてくれ」 余命はあと1か月。そう医師に告げられていた私は、すぐに荷物をまとめ、圭吾のもとへ戻った。 私が死んだあとも、花音が生きていけるようにしておかなければならなかったから。
チャプター (1)
第1章
二人目を妊娠して7か月目。私――高梨澄花(たかなし すみか)は、夫の榊原圭吾(さかきばら けいご)が幼なじみの倉田芹香(くらた せりか)と、リビングのソファで裸のまま絡み合っているところを目撃した。
早産を経て、私は迷わず離婚した。
日当たりの悪い古いワンルームを借り、飲食店で皿を洗いながら、娘の花音(かのん)を3歳まで育てた。
末期の胃がんだと告げられた日、圭吾はまた家の前で待ち伏せし、戻ってきてほしいと懇願した。
「理玖が、ママに会いたいって泣いてる。これだけ頼んでるんだ。もう一度、俺と一緒に暮らしてくれ」
余命はあと1か月。そう医師に告げられていた私は、すぐに荷物をまとめ、圭吾のもとへ戻った。
私が死んだあとも、花音が生きていけるようにしておかなければならなかったから。
第1話
再婚の手続きを終え、私は再び榊原家の屋敷に移り住んだ。
今度こそ、圭吾が望んでいた妻になった。彼が何をしようと、口を挟まない妻に。
芹香から電話がかかってきても、聞こえないふりをして席を外し、二人きりで話せるようにした。
息子の理玖(りく)がピアノの練習をさぼって遊びに出ても、見て見ぬふりをした。
外で喧嘩をして服を破り、顔じゅうにあざを作って帰ってきたときも、自分で洗ってくるよう静かに言っただけだった。
圭吾は焦った様子で、私のあとを追ってきた。
「あれ以来、芹香とはほとんど口もきいてない。本当にもう終わってる。さっきの電話だって、母さんが午後に作ったシチューを、あいつが代わりに届けるって話だった。ちゃんと断った。LINEも削除した。まだ信じられないなら、見ればいい」
圭吾は無理やりスマホを押しつけてきた。
「大丈夫。信じてる。私のことは気にせず、好きにして。ただ、花音のことだけは気にかけてあげて」
感情を込めずに答えると、圭吾は一瞬、言葉を失った。
「好きにしろって……お前がそんな態度で、俺が楽しく暮らせると思うのか?戻ってきてからずっと冷たいままだ。これで楽しく暮らせるわけないだろ」
「私は前からこうだったじゃない。考えすぎよ」
その瞬間、圭吾は癇癪を起こしたように、いきなりスマホを床へ叩きつけた。
「3年だぞ。やっと戻ってきたのに、まだ俺を苦しめるつもりか?」
私が答えずにいると、理玖も破れた袖をつまみながら近づいてきた。
「ママ、僕、翔太に殴られたんだよ。翔太のお母さんたちに文句を言いに行かないの?
もう前みたいに芹香お姉さんにばっかり甘えたりしないから。だから、そんなふうにしないでよ」
……
私はただ、淡々と言った。
「お風呂に入ってきなさい」
圭吾が勢いよくソファから立ち上がった。
「いったい、いつまでこんな真似を続けるんだ?」
こんな真似?
以前、私が泣いて怒れば、父子そろって私を頭のおかしい女だと言った。
何も言わなくなったら、今度はそれが気に入らないらしい。
「何もしてないわ。みんな、好きに楽しく暮らせばいいでしょう?」
「そうかよ。分かった。もういい!」
圭吾はすっかり力が抜けたように肩を落とし、寝室へ戻っていった。
圭吾は以前から、芹香はかわいそうな女なんだと繰り返していた。
「男を見る目がなくて、結婚してすぐ離婚した。今は女手一つで娘を育ててるんだ。子どもの頃から一緒だったから、泣いてるところを見ると放っておけない」
翌朝、私は芹香に連絡した。
いずれ彼女がこの家の妻になるのなら、花音のことを大切にしてもらわなければならない。
二人の仲を取り持ってから、娘を託すつもりだった。
「あなたから連絡してくるなんて、驚いた」
芹香は警戒していたが、圭吾に会えると分かると、すぐにやって来た。
私は彼女の手を取り、諭すように言った。
「今までは私が悪かった。あなたと圭吾が思い合っているなら、邪魔なんてするべきじゃなかったのよ」
芹香は目を丸くした。
「花音は素直で手のかからない子よ。あの子に優しくしてくれれば、それでいいから……」
ちょうどそのとき、圭吾が理玖を連れて帰ってきた。
ドアを開け、芹香の姿を見た途端、圭吾は表情をこわばらせ、慌てて弁解した。
「澄花、信じてくれ。俺が呼んだんじゃない。本当に、もう連絡は取ってない」
よそよそしい口調を向けられた芹香は、傷ついたような顔をした。
「圭吾さん、澄花さんに呼ばれて来たの」
私は芹香の手の甲を軽くたたいた。
「そう。私が呼んだのよ」
圭吾は芹香の腕をつかんで立たせると、そのまま玄関の外へ押し出した。
「悪いけど、タクシーで帰ってくれ」
ドアを閉めた圭吾は深く息を吸い、険しい顔で私の前に立った。
「どういうつもりだ?澄花、いつまで俺を試す気だ?どうして、そこまで俺を苦しめたいんだよ」
また「苦しめる」なのか。
以前は会わせないことが彼を苦しめ、今は仲を取り持つことが彼を苦しめるらしい。
私は何も分からないふりをして、平然と答えた。
「考えすぎよ。あなたも、お義母さんも、理玖も、芹香が好きなんでしょう?前から彼女と一緒に暮らしたがっていたじゃない。あの頃は、私が聞き分けのないことを言って邪魔をした。もっとみんなの気持ちを考えるべきだったわ」
私は用意しておいた避妊具の箱を、圭吾の手に押し込んだ。
「準備しておいたから。彼女を悲しませないで。早く追いかけてあげて」
圭吾は箱をテーブルに叩きつけ、私の肩をつかんだ。
「澄花、何度説明すれば分かる?お前が出ていって、俺はようやく自分の間違いに気づいた。どうして過去を終わらせてくれないんだ?もう前を向こう。いつまでも昔のことに縛られるのはやめてくれ」
第2話
私は圭吾を静かに見た。
「私はただ、あなたと彼女に幸せになってほしいだけ。昔のことを責めてもいないわ。深く考えすぎよ」
圭吾は大きく息を吐き、疲れ切った目で私を見つめた。
理玖が近づき、私の手を取った。
「ママ、戻ってきたんだから、パパと仲よくしてよ。前は芹香お姉さんが好きだって言ったけど、ママのことだって好きだよ。だからママも、もうこんなことするのやめようよ」
不意に、みぞおちを錐でえぐられたような痛みが走った。
手が震えるほどの激痛だった。私は背を向けて部屋へ入り、すぐに鍵をかけると、鎮痛薬を2錠取り出して飲み込んだ。
このところ、痛みが起きる間隔がどんどん短くなっている。
残された時間は、もう2週間もない。
激しい音を立てて、ドアが蹴り開けられた。
私は慌てて薬のボトルを枕の下へ隠した。
入ってきた圭吾は、私が何かを隠すような動きをしたことに気づいたらしい。一瞬、疑うような目を向けたが、怒りのほうが勝った。
彼は避妊具の箱をベッドへ放り投げ、片手で私を押さえつけると、もう片方の手で乱暴に服を引き裂こうとした。
「わざと俺を挑発してるんだろ?どうすれば、いつものお前に戻るのか確かめてやる」
何をされても、私は抵抗しなかった。無表情のままだった。
やがて耐えられなくなったのは、圭吾のほうだった。
「分かった!そんなに芹香をここへ呼びたいなら、今すぐ呼んでやる!」
私は静かに答えた。
「言ったでしょう。あなたが幸せなら、それでいいの」
圭吾は歯を食いしばって何度かうなずき、服をつかむと部屋を飛び出していった。
訳が分からないという顔で、理玖が近づいてきた。
「ママ、いったい何がしたいの?」
私は答えず、理玖を廊下へ出してドアに鍵をかけた。
それから、わずか2、3日後。
圭吾は大きな黒いSUVで、芹香とその娘を連れてきた。いくつものスーツケースを下ろし、二人を屋敷へ迎え入れた。
2階の部屋にいた私は、階下から聞こえる荷運びの音を聞きながら、遠い日のことを思い出していた。
あの日も、今日のような曇り空だった。
私は一人で妊婦健診を受け、予定より早く帰宅した。付き添ってくれる夫がいる妊婦を見かけて、うらやましく思いながら玄関を開けた。
リビングのソファでは、裸の二人が夢中で体を重ねていた。
私は駆け寄り、芹香にかかっていたブランケットを引き剥がした。
振り上げた手は、圭吾につかまれた。
「恥ずかしくないのか?こんな弱い立場の女を責め立てて。誰にも芹香を傷つけさせない」
私は半狂乱になり、持っていた母子健康手帳のケースを何度も二人に叩きつけた。
硬い角で頬が切れても、圭吾は泣いている芹香を腕の中にかばい続けた。
力尽きた私は、その場にへたり込み、肩で息をした。涙で顔はぐしゃぐしゃだった。
二人が目の前で慌ただしく服を着る様子を、私はただ見つめていた。
そこへ、当時5歳だった理玖が入ってきた。
芹香が涙を拭っているのを見るなり、理玖は彼女に駆け寄った。
「芹香お姉さん、ママに怒られたの?ママは怖いよね。泣かないで。僕が涙を拭いてあげる。僕もママなんて嫌い。外へ遊びに行こう。もうママには怒られないようにするから」
下腹部が繰り返し硬く張り、息ができなくなった。腹を押さえたまま、私は仰向けに倒れた。
耳に届いたのは、圭吾の冷たい声だった。
「芝居はやめろ。腹の子を持ち出して、俺を思いどおりにしようとするのはもうたくさんだ。妊娠するのは、お前だけじゃない。大げさなんだよ」
脚の間を生温かいものが伝い、引き裂かれるような痛みが全身を貫いた。
「痛い……お願い……」
もう声を出す力さえ残っていなかった。
それでも圭吾は芹香を抱き寄せ、そのまま部屋を出ていった。
「芹香、怖がらなくていい」
意識が遠のくなか、理玖の泣き叫ぶ声だけが聞こえた。
「血が……こんなに血が出てる。ママ、どうしたの?ねえ、目を開けてよ!」
第3話
目を覚ますと、病室の外から責めるような声が聞こえてきた。
「おとなしく榊原家の奥様をしていればよかったのに。離婚して苦労している芹香と、わざわざ張り合う必要なんてあったの?
あれだけ出血して、子宮まで摘出したんでしょう。もう榊原家の跡継ぎを産むこともできないじゃない。私は最初から、あの女は気に入らないって言ってたのよ。結婚するなら芹香にしなさいって」
圭吾が母親の言葉を遮った。
「もういい、母さん。ここは病院だ。今日は帰ってくれ」
「分かったわ。夜、家に着く頃に連絡しなさい。芹香を行かせるから、身の回りのことをしてもらいなさい」
そこで初めて分かった。
私が家を空けるたび、圭吾の母は気に入っている芹香を圭吾のもとへ送り込んでいた。芹香も、私が出かける時間を見計らって訪ねていたのだ。
私は4年ものあいだ、何も知らずにいた。
絶望したままベッドに横たわり、圭吾が病室へ入ってくると、私は離婚を切り出した。
「外で話していたことは、全部聞いた。ほかには何もいらない。二人の子どもだけ、私に連れていかせて」
圭吾は新生児用のコットに寝かされた赤ん坊を見たあと、その場に膝をついた。
「澄花、離婚なんて言わないでくれ。俺にはお前が必要なんだ。結婚する前から、母さんが芹香と一緒になれって言ってたのは、お前も知ってるだろ。俺はお前としか結婚する気はなかった。
今になって母さんが、芹香を家に置いて面倒を見ろって言い出したんだ。断ったら死んでやるって騒ぐし、年老いた母親を見捨てることもできなかった。俺だって、どうすればいいか分からなかったんだ。一度だけ、許してくれないか?」
涙があふれ、枕を濡らした。
「お義母さんがそんなに芹香を気に入っているなら、あなたは二人と暮らせばいい。離婚して。私は子どもたちだけ連れていく」
そばにいた理玖は、圭吾の後ろへ隠れた。私はその手を取ろうとした。
子どもたちだけが、私に残された希望だった。
だが、力の入らない手を伸ばすと、理玖は身を引いた。
「ママ、またパパを困らせてる。何も悪いことなんてしてないのに、どうして離婚するの?芹香お姉さんは優しいし、おばあちゃんも、パパも、僕も好きだよ。
芹香お姉さんを嫌ってるの、ママだけじゃないか。ママなんて大嫌い!毎日怒って、ピアノを弾け、絵を描けって言うし、芹香お姉さんまでいじめる。僕はママとは行かない。パパとおばあちゃんと、芹香お姉さんと暮らす」
圭吾は形ばかり理玖をたしなめ、黙るよう目で合図した。
その瞬間、心の中で何かが死んだ。絶望する力さえなくなり、どんな言葉も意味を失った。
私はそれきり、一言も話さなかった。
退院すると、一人で花音を抱いて家を出た。
お金がなく、借りられたのは日当たりの悪い古いワンルームだけだった。
幼い花音を抱えたままでは、働き口もなかなか見つからなかった。
ようやく小さな食堂の店主が事情をくみ、店の奥に花音を寝かせる場所を用意して、皿洗いとして雇ってくれた。
給料は家賃と生活費でほとんど消えた。自分の食事を切り詰めても、花音のミルクやおむつは買わなければならなかった。
胃がんになったのも、あの頃の暮らしが少なからず影響していたのかもしれない。
それでも花音は聞き分けがよく、3歳になったばかりなのに、いつも私を気遣ってくれた。
もう二度と、この子にあんな苦労はさせたくなかった。
……
記憶を断ち切ったのは、ドアの向こうから聞こえてきた芹香の声だった。
「澄花さん、圭吾さんが迎えに来てくれたの。今日から一緒に暮らすんだから、仲よくしましょうね」
勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「そう。ようこそ、芹香さん。どの部屋を使うの?すぐに片づけるわ」
「その必要はない」
背後から、圭吾の冷たい声がした。
「芹香は体が弱い。この部屋がいちばん日当たりがいいから、ここを使わせる。澄花は、使用人用の部屋へ移れ」
「分かった。あなたの言うとおりにする」
私は従順に答えた。不満など少しもないように。
芹香の嘲るような笑みには気づかないふりをして、荷物をまとめ始めた。
その拍子に、鎮痛薬のボトルが床へ転がった。
圭吾が拾おうとかがみ込む。
「何の薬だ?誰が飲んでる?」
止める間もなく、私は答えた。
「花音のビタミン剤よ」
芹香は甘えた声で笑い、圭吾を部屋の外へ押し出した。
「女同士で片づけるから、圭吾さんは外にいて。私が澄花さんを手伝うわ」
私はその隙に、急いでボトルを拾い上げた。
圭吾は腑に落ちない顔をしていたが、そのまま部屋を出ていった。
第4話
芹香の鋭い視線を感じた途端、みぞおちにまた耐え難い痛みが広がった。
私が逆らわずにいれば、花音はこの先、少しでも暮らしやすくなる。
圭吾の足音が遠ざかると、芹香は私の手首をつかんだ。
「あなたが陰で圭吾さんに泣きついて邪魔をするから、私は今までここへ来られなかったのよ。弱ったふりをすれば、心配してもらえるとでも思った?散々騒いで戻ってきたところで、圭吾さんが大切にするのは、結局私でしょう?」
私は目を伏せ、穏やかに答えた。
「勘違いよ。あなたがここへ来ることを、私は本当に歓迎している。二人には幸せになってほしいの。その代わり、これから花音を大切にしてあげて」
何を言ってものれんに腕押しで、芹香はいら立ったらしい。吐き捨てるように言った。
「忠告しておくわ。この家にいたければ、これからは身の程をわきまえることね」
私は数着の服と、わずかな日用品だけをまとめた。
階段まで来ると、圭吾が私の前に立ちふさがった。
「それだけしか持っていかないのか?」
「必要なのは、これだけよ」
彼が何を言いたいのかは分かっていた。
結婚式の写真。彼から贈られた絵やアクセサリー。二人で出かけた旅先で買った、いくつもの思い出の品。
以前はどれも大切で、使用人にも触らせず、自分で手入れをしていた。
けれど今は、一つも持っていく気になれなかった。
圭吾が部屋を指さした。
「ほかの物は、全部いらないっていうのか?」
私は彼を一瞥した。
「重くて運べないもの」
圭吾は突然、私を押しのけて階段を駆け上がり、部屋へ飛び込んだ。
そして結婚式の写真も、絵も、思い出の品も、すべて2階から投げ落とした。
床へ叩きつけられた品々は、次々と音を立てて砕け散った。
使用人たちは部屋の隅で息を潜め、誰一人、止めようとはしなかった。
私は何も見なかったように破片の間を歩き、使用人用の部屋へ入った。
背中に、芹香の嫉妬に満ちた視線が突き刺さった。
ドアを閉めた途端、口から大量の血があふれた。
もう、あと1週間しかない。
疲れ切っていた。あの人たちのことを考える力など、もう残っていなかった。
翌日、圭吾が部屋の前に立った。
「芹香の娘が、昨夜は眠れなかったらしい。花音をお前の部屋へ移して、あの子には花音の部屋を使わせる」
花音の部屋は、私たちを連れ戻したとき、圭吾が自分で整えたものだった。
娘には、何でもいちばんいいものを与える。そう言っていた。
怒りがこみ上げた。それでも、しばらく考えた末、ぐっとのみ込んだ。
「分かった……」
花音は3年間、私とあの暗い部屋で暮らしてきた。ここは狭くても、あの頃の住まいよりずっとましだった。
この家で無事に育ってくれさえすれば、それでよかった。
花音は、私の目尻ににじんだ涙を小さな手で拭った。
「ママ、花音はママと一緒がいい。あのお部屋はいらないよ。ママがいるお部屋が、花音はいちばん好き」
私は娘を強く抱き締めた。
そして、また鎮痛薬を何錠も飲み込んだ。
数日後、芹香の娘が重い病気になったという。
芹香が連れてきた霊能者は、家の中を見回しながら言った。
「3年前、この家に妊娠7か月で生まれた女の子がいるはずです。今は3歳になっているでしょう。その子が災いを呼び込んでいます。家から遠ざけなければ、さらに不幸が重なります」
芹香は泣きながら花音の腕を乱暴につかみ、今すぐ追い出すよう圭吾に迫った。
圭吾の大きな体が、私の前に立ちはだかった。
「聞いただろ。今日中に花音を別の場所へ移せ」
もう我慢できなかった。
私は圭吾の頬を思いきり打ち、芹香に駆け寄ると、そのまま蹴り倒した。
「ふざけないで!花音のためになると思ったから、今まで何も言わずに耐えてきたのよ。よりによって、あの子を利用するなんて!」
倒れた芹香の頬を、私は何度も平手で打った。
「絶対に許さない!」
圭吾が我に返った頃には、芹香は気を失っていた。
彼は背後から私を強く抱え込んだ。
どこにそんな力が残っていたのか、自分でも分からない。私は必死で振りほどき、血走った目で圭吾をにらみつけた。
「二度と、花音に手を出さないで……もう一度でも、あの子を傷つけたら、死んでもあなたを許さない……」
言い終わる前に、私は圭吾の顔に血を吐きかけ、その場に崩れ落ちた。